一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

細川忠興が植えた臥龍梅に江戸時代の残り香を感じる

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松井神社の臥龍


今回も地元ネタで。

現在居住している熊本県八代市工業都市としてのイメージが強いが、歴史的遺産も多い。その中で一つだけ選べと言われたら、私は八代城の北側にある松井神社の「臥龍梅(がりょうばい)」を推す。

江戸時代初期、八代城を隠居の場とした細川忠興が手植えしたとされている。2月の終わりには可憐な花を咲かせる。毎年、新聞やテレビでその様子が伝えられるが、あまり有名ではない。最近は樹勢が衰えているようで、ちょっと心配だ。

ご存知の人も多いと思うが、忠興は戦国武将として、利休の弟子の茶人として、三斎流という新たなスタイルの甲冑を編み出した美術プロデューサーとして有名だ。妻は「麒麟がくる」の明智光秀の娘たま。ガラシャだ。父は細川藤孝。武人であり歌人。足利家、織田家、豊臣家、徳川家に付き従い、時代を見定めるインテリだった。親子ともども全方位に能力が高い武将だったようだ。

細川家というのは、大河ドラマになるほどメジャーではないが、日本史を語る上では決して無視できない大名家だ。どちらかというと熊本では熊本城を築いた加藤清正が人気があるが、とんでもない量の歴史資料や美術品を現代に残した細川家を、私としては大事に思っている。司馬遼太郎も「細川好き」を自認しており、近世細川家(細川家の歴史はあまりに長く家系が複雑なので、細川藤孝=幽斎=を始祖とする細川家をこう呼ぶ)については、小説で取り上げたり、先代当主である細川護貞氏との交流を随想で書いたり、なにかと注目していたことがわかる。やがて始まる「麒麟がくる」でも、細川藤孝は準主役級の扱いになりそう、と現当主の細川護熙さんが一度語っていた。

ところで読売新聞で歴史家の磯田道史さんが、明智光秀細川藤孝の関係を書いていた。光秀を歴史の表舞台に上がらせたのは藤孝だと強調。自分が描いたシナリオ通りに足利義昭織田信長を動かそうと、自分の優秀な手下で外交上手の光秀を信長の元に送り込んだというのだ。光秀はそのまま織田家に奉公、やがて細川家を凌駕する力を付け、2人の関係性が逆転したという。

驚くべき記事だった。ずっと、藤孝は光秀の下につけられた武将と思っていた。細川家がフィクサー的な動きを得意とする家であることは承知していたが、磯田さんの論考でいけば、戦国史を作り立てたのは藤孝だということになる。本当だろうか。いや細川家ならありえる。磯田さんの論考は連載の形でまだ続く。楽しみだ。

話が逸れたが、そんな細川家の2代目が忠興なのだ。戦国期を生き残り、本能寺の変関ケ原など表舞台に何度も顔を出す武将だ。美貌の妻ガラシャに異常なまでの執着心を見せ、相当癖の強い性格だったことも知られている。加藤家が改易された寛永年間、細川家は小倉から肥後に入国。当時はすでに3代目の忠利が家督を継ぎ、忠興は隠居の身で八代に住んだ。徳川幕府での細川家の安定を図るため、忠興・忠利親子は頻繁に手紙をやりとりして方策を練っている。それらがすべて保存され、今でも「永青文庫」に所蔵されているから驚きだ。細川家では「記録を残す」ことを大事にしてきたという。

臥竜梅の近くには、忠興が作った庭園の名残が見られる。さらにその北側の中学校の一画に、忠興が織田信長の菩提を弔うために建てた五輪の塔がある。ただ、その存在を知る人も極めて少ない。

忠興の死後、八代城は細川家の筆頭家老である松井家が城代となり、明治初年まで続く。

今も松井家は八代城の近くにある茶屋「松浜軒」に居住している。江戸の残り香が八代の町にはまだあるのだ。