一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

庭の木陰で村上春樹を読む

空が青い。雲一つなく輝いている。

しかし車を飛ばしていろんなところをドライブして、好きな温泉に入って、ちょっと気になるラーメン屋に寄り道、などできる状況ではない。新型コロナは終息する気配なしである。

家にいて、外出気分を味わうことはできないものか。そんなことを考えながら、庭に椅子を持ち出して木陰で読書をしてみた。小さめの音量でスマホの音楽を聞きながら。15年ほど前、キャンプに凝った時期があり、その時に購入した道具を引っ張り出して、お湯を沸かし、コーヒーを作る。ん〜、なかなかいい。

なぜだか買ったまま読んでいなかった村上春樹の「スプートニクの恋人」を読む。まだ最初の100ページほどしか読んでいないが、この作品、村上春樹の世界観が満載で、嬉しい。出版されたのが1999年なので、それほど初期作品というわけではないが、「ノルウェイの森」などが出た80年代の明るさがあるような。

始まりからしてそう。「22歳の春にすみれは生まれて初めて恋に落ちた。広大な平原をまっすぐ突き進む竜巻のような激しい恋だった」。グッとくる。「東部戦線の亡霊たちが持ち込んできたような重い沈黙だった」と言った比喩も随所に見られる。

村上春樹のデビュー当時からリアルタイムで作品を読んできたのが、私のささやかな自慢である。私が高校生だった1980年頃だったと思うが、ラジオでデビュー作「風の歌を聴け」が朗読だったかラジオ劇だったかで流れていたのを聞いたのが最初。一つ一つの表現が斬新で説得力があり、心に響いた。その魅力はなんなのだろう、と大学時代に考え続け、結論づけたのが「人間への愛」。今から思えば訳の分からない結論としか思えない。本人が聞いたら大笑いするだろう。

しかしいつしか村上春樹作品から心が離れた。自分を取り巻く厳しい現実と村上作品の世界があまりにかけ離れていて(私小説ではないのでそうなるのは当然だが)、そのギャップさえもが不甲斐なさとして自分に重くのしかかり、人間の煩悩の塊のような松本清張作品に傾いてしまったりした30代であった。妻から「松本清張禁止令」が出たのを覚えている。

その後の私の読書傾向を時系列で示すと、松本清張司馬遼太郎吉村昭記録文学系→近現代史の評論、といった流れをたどっている。10年ほど前は、歴史系が本棚のほとんどを占めた時期もあったが、最近はさすがに飽きて、通常の小説が増え出した。村上春樹の本(エッセイ含め)もまた姿が見え始めた。一周ぐるっと回ってきました、と言った感じである。

思えば、太宰治村上春樹は、褒め称えたりこき下ろしたりの議論の場を提供している作家のような気がする。漱石とか鷗外を滅茶苦茶に言う人はそういないし、三浦しおんや原田マハへの批判などあまり聞いたことがない。しかし「俺は太宰が大嫌い」「村上春樹のどこが面白いんだ」という声はしばしば耳にする。言っても許される雰囲気とでも言おうか。発言している本人たちもどこか得意げ。結局のところ2人は作家としての存在感が並外れて強いということでしょうか。

それでは「スプートニクの恋人」の続き、読んでみることにするか。