一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

吉本の舞台を見てお笑いを考える

記念すべき100本目の記事である。

昨年11月に書き始めて約11ヶ月でここまで来た。ブログを始めてから100本まで達成する人はそう多くないと聞く。通常、アクセス数が少ないと心が折れて撤退してしまう人たちが多いらしい。アクセス数の少なさは第1級と自認しているが、「何か書いておきたい」という思いの方が勝ったのだろう。どうにか100回を達成することができた。売れないお笑い芸人の気持ちがよく分かる気がする。「それでもお笑いがやりたい」といった感じ。

前回、京都旅行の話を書いたが、実は旅行3日目の最終日(10月17日土曜)、十数年ぶりに「なんばグランド花月」に出向いた。100回目の今回、旅行を時系列に書くことを諦め、お笑いについて書いてみたい。

お笑いが結構好きだ。コントと漫才、どちらが好きかと聞かれれば、コントなのだろう。「しゃべくり漫才」は笑いを強要されている気がして、よっぽど面白ければ別だが、心の底から楽しめない時がある。

とは言いながら、オーソドックス系の漫才は好きで、関西なら「中川家」「かまいたち」、東京なら「ナイツ」のファンである。コント系なら「ジャルジャル」や「東京03」。恥ずかしながら就寝時にはいつもナイツの漫才をYouTubeで聞きながら、子守唄がわりとしている。ただ最近の塙は本を出したり、お笑いを高所から論評したり、新たな立ち位置を下手に模索しているようで、心配である。

話が逸れたが、なんばグランド花月の17日2回目公演は、前半が「スーパーマラドーナ」「まるむし商店」「和牛」「トミーズ」「テンダラー」の漫才。中田カウスが若手漫才師を紹介するコーナーでは「さや香」。後半は川畑泰史が座長の吉本新喜劇(テレビ収録をやっていた。10月30日放映と言っていた)。なかなか「当たり」だったのではないかと思っている。お笑いにあまり興味がない妻にも「結構な顔ぶれ」だと胸を張れた。

f:id:noaema1963:20201018175117j:image

で、感想。自分はやはり「コント派」なのだなと実感した。新喜劇の方が安心して見ることができた。前から3列目の真ん中あたりの席、という特等席だったが、漫才芸人たちの「圧」がすごいのだ。

特に常々「見ていてきついな」と思っていたスーパーマラドーナは、ヤンキーキャラ武智の圧が強過ぎて、ボケの田中がまじで虐められている感じがしてしまい、うまく笑えなかった。舞台上から「3列目の客、面白がってないな」と思われてしまいはしないか、という病的な感覚にまで襲われてしまう始末。ただ他の観客からの受けは上々だった。

「和牛」は以前は好きだった。ただ「立て板に水」のスムーズ過ぎる掛け合いに次第に拒否反応を示すようになってきた。上手なんですよ、本当に。でも上手過ぎて‥。今回の舞台もコント系漫才とでもいった見事な作り込みと演技力を見せてくれたが、旅の疲れかだんだんと眠気に襲われている自分に気づいた。

漫才師はちょっと角が取れてきたくらいが、私にはちょうどいい。今回で言えば「テンダラー」あたり。

しかしそれにしても、あの「圧」を醸し出し合う若手芸人たちの楽屋は、一体全体どんな感じなのだろう。想像するだけで、こちらが病んできそうである。又吉直樹芥川賞受賞作「火花」で、ある程度の雰囲気を掴むことはできたが。

休憩時間、妻に感想を聞く。コロナ対策で会場は「客席の5割しか入場できない」状態なので、席が離れていたのだ。「良かった。みな声がいい。マイクの使い方がうまい。特に和牛は上手だった」と分かるような分からないような反応。「絶対退屈しているはず」と心配していただけにとりあえず安心した。

後半の新喜劇は大満足。ラーメン屋の大将が女優希望のアルバイトを好きになる話。私が好きな小藪も出演していたので尚更である。それにしてもアルバイト役の井上安世は綺麗だった。そしてスッチーは盤石の存在感を示していた。

シナリオが善意に満ちている。お約束通り。笑いの敷居が低い。いつも通りのキャラをいつも通りにアウトプットしてくれる。とんがっていない。あれくらいがいい。「あれくらいとは失礼な」と言われそうだが、あの予定調和を量産する世界が大阪には存在しているんだなぁと思えるだけで、相当多くの人々が救われていると思う。「男はつらいよ」と少し似ているなと思った。

公演は2時間で終了。夕方の冷たい雨が降る中、混沌とした千日前から戎橋あたりを妻とうろつく。大阪の大学を卒業している妻は「京都の人も神戸の人も、買い物は大阪に来る」と話していたが、その話もそう間違っていないかな、と思わせるほどの人出。午後8時出発の新幹線を予約していたので、喫茶店などで時間をつぶす。それにしてもあれだけたくさんの人たちが全員関西弁で物事を考えているのだろうな、と思うと、ちょっとゾッとした。当たり前の話なので、ゾッとする必要もないのであるが。