一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

神話との関係を探りに宮崎へ

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

先月、高千穂に行って以来、神話と日向国宮崎の関係に興味を持ち始めた。年は明けたが2020年は日本書紀編纂から1300年。記紀に書かれている神代はなぜ「宮崎が舞台」とされたのか、ネットや本を乱読している今日この頃だ。

本を読むだけでは飽き足らず、コロナ感染拡大が騒がれる中、車中泊の一泊一人旅を挙行。ほぼ他人とコミュニケーションをとることなく、感染対策を万全にして宮崎県中部・北部の神社や古墳群を巡った。後ろめたさを抱えながら。

そもそもなぜ宮崎は神話の里とされるのか。

古事記日本書紀には「天照大神の孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコト)が高天原から日向の高千穂の峯に降り立った」と記している。天孫降臨の説話である。これが宮崎=神話の舞台の原点。

やがて瓊瓊杵尊木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)と出会い、二人の間に山幸彦や海幸彦ら3人の子供が誕生。曾孫の神武天皇は日向から東征して大和国で日本を建国したとされている。

ちなみに今読んでいるのが「宮崎県の歴史」(1970年刊行の古いバージョン。日高次吉著)と「古代日向の国」(1993年刊行。日高正晴著)。多分この二人は親子なんじゃないかな。2冊とも古い本だが分かりやすい。

「宮崎県の歴史」では神話の里であることについて「日向が天孫降臨の地であるといわれたことは、戦前まで宮崎県民の誇りであった。そしてその伝説を事実と信じていた人もあった」と冷めた書き方をしている。さらに神武天皇に触れ、「日向の人々は、天皇が宮崎に宮居していたということをほとんど事実として信じたようであるが、古事記にも日本書紀にもそのようなことは記されていない」としている。

一方、「古代日向の国」では神話と宮崎の関係の深さを強調している。

もし二人の著者が親子だったとすれば、結構仲が悪かったんじゃないだろうか、と要らぬ心配をしてしまう。邪馬台国論争とちょっと似ている感じがする。

 

というわけで、まずは神武天皇を祀っている高原町(霧島の麓)の狭野(さの)神社を訪ねた。神武天皇の幼名狭野尊に因んだ名前だ。厳かな雰囲気の杉林の参道を抜けるとまぁまぁの大きさの拝殿。地元民で賑わっている。この神社は以前、宮崎神宮の別宮だったが、戦後独立。現在は神社本庁別表神社の一つとなっているので、なかなかの格式の神社ということだ。

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この神社は霧島の噴火の影響で何度か場所を変えたらしい。もともとあった場所には末社の皇子原神社が鎮座している。狭野神社から車で2〜3分。階段をふうふう言いながら上がると、小さな社。ほとんど誰も訪ねる人はいない。すぐ横の公園を走るゴーカートの音がさらにわびしさを掻き立てる。

社の後ろには、茅葺の小屋と神武天皇の子供時代を表現したと思われる石像。小屋の戸の隙間から覗くと、神武天皇の生誕場所を示す「産婆石」(うべし)らしき岩が少しだけ見えた。
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神武天皇が幼少時代を過ごしたという伝承が残る土地。これまで何度となく温泉に入りに近くまで来たが、そんないわれがある場所とは知らなかった。そういえば至る所に「神武の里」の看板。「焼酎の宣伝か何かかな」とこれまで興味さえ示さなかった自分が恥ずかしい。見上げれば霧島の山並みが悠々としている。

神武天皇はその後、宮崎市の中心部に近い宮崎神宮付近で45歳まで過ごし、東征に旅立ったという。昔の45歳といえば相当な老人であっただろうが。史実とすれば「頑張ったな」。

宮崎神宮を訪ねた。狭野神社から車で1時間ほど。もちろん初めての訪問である。そもそも宮崎市を訪ねるのが10年ぶりくらいなのだ。おそらく旅生が九州で一番訪ねる機会の少ない県庁所在地である。

参考に書いておくと、熊本市在住の旅生が訪ねる各県庁所在地への回数はー。福岡市は年に数回。佐賀市は年1回。長崎市鹿児島市は2〜3年に1回。大分市は5年に1回。宮崎市が10年に1回。ずいぶんあちこちを巡っている気がするが、こうやって書いてみると、そんなに多くはないのかなと思う。

県庁所在地の神社だけあって相当賑わっていた。ここの祭神も当然ながら神武天皇。神社の境内は鬱蒼と木々が生い茂っている。街中でありながら結構な面積を占めているようで、東京でいえば明治神宮に似た存在感である。隣接して護国神社や博物館、美術館があり、雰囲気のいい地区だ。

ここでも御朱印を買ったが、正月のためか書き置き。忙しいので書く暇などないのだろう。なかなかいい感じの御朱印ではありましたが。
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その後、以前からその存在は知っていたが、ほぼ興味を示すことがなかった平和台公園に向かう。宮崎神宮の割と近く。

公園の真ん中には驚くほど存在感のある平和の塔。「天皇家の誕生の地」と信じられていた宮崎に、神武天皇即位2600年とされた昭和15年、「八紘一宇の塔」として建設。見物に来ていた地元のおばちゃんが「当時学生だった私の祖母が建設作業に駆り出されたと言っていた」と同行の人に熱心に話していた。

八紘一宇とは「天下を一つの家のようにすること」「全世界を一つの家にすること」らしいが、日本のアジア侵略のスローガンに用いられたとも見られ、今では言葉の意味を知らない人の方が多い。

下から見上げるとアンコールワットの一部を思わせる。神話の像も彫りつけられ、何か独特の雰囲気が漂う。日本らしくもあり、アジアらしくもあり、ヨーロッパ的な感じもする。そういう意味では「全世界」を表現できている優秀な建造物なのかもしれない。巨大建造物好きの旅生はしばらく、この塔から離れられずにいた。建設の狙いは置いといて、魅力ある建造物だと思う。戦後よくぞ壊さずに残したものだと思う。
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塔の展望台(?)から見ると、ずっと向こうに太平洋が見えた。宮崎は穏やかに広々としている。
神話と宮崎の関係で気になるのが、「こういった神話はもともとあった話を脚色して物語にしているのか」「編纂者が一貫して空想した紡いだファンタジーを、古代の日向の知恵者が自分たちの土地に都合よく絡めたのか」といったあたり。後者であれば地域づくりの名人である。何しろ奈良時代の「日向国風土記」にはすでにこの神話を組み込んであるのだ。ということは奈良時代〜昭和初期にかけ、「神代=宮崎の上代」と見られていたわけだ。

このあたり、引き続き、知識を深めていきたい。