どうも。旅するおやじ旅生です。
出だしの挨拶、ちょっとかえてみた。YouTubeの番組に影響された。確かにこっちの方が入りやすい。
数日前に句会に出す俳句のことを書いた。
その結果が出た。分析してみたい。
まず旅生が作った五つの句。
①落椿茅屋解かれはや五年
②湯治場の隅の隅まで日脚伸ぶ
③菩薩像まろやかな眉春浅し
④集会所にともしび戻り宵の春
⑤建国祭海を見ている記念塔
点数は0点から最高14点まで出るが、基本的には1〜5点あたりが多い。
旅生が一番気合を入れていたのは①。ところがこれは1点だった。熊本地震から5年が経ち、被災したあばら屋はすでに解体されたが、近くの椿の花は今年も咲いては落ちているーという風情を描いた。しかしだめでしたねぇ。作り込み過ぎた感じに受け止められたか。でも通勤途中に見る実際の風景なのだが。
②が一番点数が良くて5点。西日が温泉場の隅々まで照らした明るい景色を詠んだ。これも実際の風景。でもなんとなくだが、似たような句があるような気がしないでもない。
③は1点。結構時間かけて作った割には得点低し。きれいに表現しようとしすぎるのだろう。妻もそう言っていた。「いかにも、という感じがする」と。
④コロナが沈静化し、公民館に明かりが戻った景色。これはほぼ瞬間的にできた。2点。そんなところだろう。
⑤今回の句会のテーマが建国記念日だったので、無理して作った一句。0点。やはりそうか。擬人法はよくないと言われるが、その通りだろう。臭くなる。「記念塔から海を見る」としたがまだ良かったかもしれない。詩情もなんもないが。
惨敗とは言わないが、パッとしない結果。やはり格好つけ過ぎ、まとめようとし過ぎ、というのが旅生の句の欠点だろう。
もっと独自の観察を生かすべきだ。例えば「女性の白い足首がなんとも涼やか」とか「子供はなぜだかランドセルを背負うと必ず走り出す」とか「ゴッホのような顔した爺さんが畑を耕していた」とか。そんな自分なりの感動や自由さを句に表現しないといけないのだろう。人が聞いたらバカバカしいさえ思われかねない感性を生かすべきなのかもしれない。
俳句は各人の思い込みの発露だと思う。激しい思い込みこそ、いい句の出発点ではないか。
その一方、正岡子規が提唱した「写生」がどうしても自分にはうまくいかない。写生をしようとすると、どうしても映像的に飾り立ててしまう。感動よりも装飾に走ってしまう。
最近、俳句を作るのが苦になっているなぁ。まずいなぁ。自分の感性を信じていた初心に帰らねば。