一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

興味深いぞ、細川家と松井家

どうも、旅するおやじ旅生です。

以前仕事の都合で八代市に住んでいたことはこれまでも何回か書いた。

その八代市には市立博物館があり、意欲的な企画展を展開している。その博物館の学芸員さんが「家老の忠義 大名細川家存続の秘訣」という本を出した。地元の新聞に紹介してあったので、歴史好きの旅生も早速購入した。

タイトルに名前は出てこないが、幕末まで八代城を預かった細川家筆頭家老の松井家始祖、松井康之とその息子興長を記した本である。

細川家と松井家のつながりについて簡単に説明したい。この本からの情報だけではなく、旅生がこれまで聞き集めた知識を総動員した説明。念のため。

松井康之はもともと足利幕府の幕臣。同じく足利幕臣だった細川藤孝(のちの幽斎。肥後細川家の始祖)は同僚だったことになる。

細川藤孝明智光秀らと足利義昭を担ぎ出し、やがては織田信長の力を借り上洛(このあたり、昨年の大河ドラマに詳しい)。数年後、信長の手で室町幕府は終焉を迎えるが、政治感覚に優れた藤孝は信長の配下に。その頃、松井康之は細川家の家臣となる。

旅生の個人的な感想だが、このあたりの細川家の成り立ち、ポッと出の戦国大名家と違い、細川家が武家儀礼を司る高家に近い存在だったことを感じさせる。

松井康之はその後、細川家を支える武将として名をなす。朝鮮出兵での活躍を認めた秀吉は「石見国の西半分」を与えて大名に取り立てようとするも、康之は「細川家に忠義を貫く」として拒否。このあたりの話は康之の真骨頂として後々語り継がれる。

話は当然、徳川家康にも伝わる。感動した家康は山城国に小さいながらも松井家の知行地を認め、康之は細川家家臣でありながら徳川家幕臣になった。幕末まで将軍の代替わりなどの際は江戸城に登城するという特殊な細川家家臣だったのだ。

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上の家系図、この本に記してあったものを撮影させていただきました。

それにしても戦国期から江戸初期までの細川家、大河ドラマにしたら結構面白いんではないだろうか。特にガラシャと結婚し、関ヶ原で活躍した2代目の忠興は舞台回しの材料が豊富。「戦国一の短気な男」と評されるほどの気性の荒さだったらしい。死の直前まで隠居の身でありながら、息子や家臣団を困らせるほどやりたい放題だ。

実は今回、この本を読んで一番興味を引いたのが、この忠興周辺の話だった(執筆者の学芸員さん、松井家から話がずれてすいません)。

実は忠興が当主の頃、3人の身内が細川家を去っている。

まずは忠興とガラシャの長男、幸隆。妻は加賀前田家の娘だった。

秀吉の死後一時期、忠興が前田家と組んで徳川家に反旗を翻そうとしているという噂がたった。忠興はその釈明に大変な苦労を強いられた。それがあってか忠興は幸隆に離縁を勧めたようだが、幸隆がこれを拒否。忠興の怒りを買い、廃嫡されたらしい。別の本によると、大坂の細川屋敷でガラシャが自害した際、幸隆の嫁は自害せずに屋敷から逃げた出したことも悪い方向に影響した、とあった。

2人目は忠興の弟興元。丹後時代は細川家臣団のまとめ役として活躍したが、豊前に移封後、忠興から与えられた石高に納得できず細川家を去った。

3人目は忠興の次男興秋。長男幸隆が廃嫡されたので当然興秋が跡を継ぐところだが、前田家の一件後、人質として徳川家に預けられた三男忠利が家康・秀忠にひどく気に入られたため、忠興は忠利を後継としたのだ。で、興秋が代わりに江戸に人質として送られたが、プライドが許さない興秋は京都で剃髪して姿をくらました。

何しろ気性の激しい忠興に、周辺は「やってられない」という思いが募ったのかもしれない。何しろまだ戦国の荒々しい気風が覆っていた時代である。

面白いことに3人とも、京都で風雅な生活をしていた忠興の父幽斎を頼って世話になっていたらしい。いいじいちゃんだったんだろうな。

忠興には血腥さを感じるが、幽斎のエピソードはいつもどこか優雅だ。

ちなみにWikipediaによるとその後、幸隆は許され細川内膳家として血脈は続く。時事放談細川隆元はこの家の人。興元は常陸谷田部細川家の初代当主となる。

ただ興秋は大坂の陣に出陣し、敗走して自害したとされる。

 

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上の写真が細川藤孝(幽斎)。本の一部を写させてもらいました。

読みやすくて、面白い学術書でした。