どうも。旅するおやじ旅生です。
このブログ、東京在住の娘が時々見ているのですが、「古代史の話は難しくてよく分からない」と言うので、「じゃ、どんな話題だったらいい」と聞くと、「幕末ネタとかは?」と返ってきました。
確かに。幕末ネタなどほとんど書いていない。あれほど好きだったのに。
15年ほど前、旅生は熱烈な幕末ファンでした。と言っても龍馬ファンではありません。逆の立ち位置にある新選組にハマったのです。ちょうど三谷幸喜脚本の大河ドラマ「新選組!」をやっていたこともあり、40過ぎたおっさんが毎日毎日、新選組のことばかり考えてました。
小学4年生だった娘を連れて真夏の京都に行き、壬生の屯所跡や西本願寺、二条城、三条小橋の池田屋跡など新選組が関係した場所を巡った思い出もあります。
知らない人はほとんどいないと思いますが、軽く新選組の概略を。
幕末の文久年間、「天誅」という名の暗殺が横行していた京都の治安維持にあたるため組織されました。旅生が生まれるちょうど100年前。だから今から158年前です。江戸時代のことなのですごく昔のイメージがありますが、自分の年齢を尺度に加えると、そう昔でもないような気もします。
当初は、関東からやってきたヤサグレ田舎浪士(農民も多かったようです)の集まりとして見下げられていたようですが、京都守護職である会津藩主松平容保の預かりとなり、やがて幕臣に。ダンダラ模様の羽織りが有名ですが、実は最初の1年間だけしか着ていなかったようです。まぁ確かに夏の京都であんなの羽織ってたら暑苦しくてたまらんでしょう。
新選組の一気に有名にしたのが池田屋事件でした。何度となく映画やドラマの見せ場となっています。
事件では多くの志士が命を落とし、または捕らえられました。その中には、生き残っていたら明治新政府の重鎮になっていただろうと思われる人もいます。特に長州の吉田稔麿。吉田松陰門下生の中でも久坂玄瑞、高杉晋作と並ぶ「三秀」の一人です。
長州藩の悲しさはこうした若き実力者のほとんどを幕末の動乱で失ったことだとしばしば言われます。逆に下っ端だった伊藤博文や井上馨、山縣有朋らは生き残り長州閥をつくります。それは土佐藩も一緒のようです。唯一、薩摩だけは藩のまとまりが強かったせいか、人材を失うことが比較的少なかった気がします。
話が飛んでしまいました。
池田屋事件には熊本藩出身の志士もいました。この日の集まりの頭目的存在であった宮部鼎蔵。熊本の医師の家に生まれましたが、山鹿流軍学を学び、藩に召し出されるもやがて脱藩。江戸で吉田松陰と出会い、2人は海防の視察を兼ねて東北地方を旅しました。その辺り、司馬遼太郎の「世に棲む日日」に詳しいです。この人も生き残っていたら、新政府でそれなりの地位を占めていたかも。享年45。
松田重助という熊本藩脱藩の志士もいました。熊本の国学者林桜園や宮部に学び、黒船来航の頃から尊王攘夷運動に走ります。思えば、どの志士よりも早く尊攘思想に染まっていたことになります。池田屋事件の前年には七卿落ちにも加担しています。享年35。
実は旅生の娘の旦那が、松田重助の身内に当たります。重助の直系の子孫ではないようですが、娘の拙い説明ではよく分かりません。今度詳しく聞いてみます。細川藩士の家系だったので、自宅には江戸初期の知行を示す古文書や、曽祖父と交流のあった孫文の手紙など残っています。
話が大きくそれましたが、しばらく新選組の話を書いてみようと思います。