一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

古代史の肝 応神王朝の謎

どうも。旅するおやじ旅生です。

引き続き古代史の全体像を追っかけてみたいと思います。

前回は応神王朝の入り口で終わってしまったので、その続きから。井上光貞氏の「日本の歴史 神話から歴史へ」を軸に、そのほかの情報も引用しながらまとめています。

倭の五王の時代

応神王朝は河内王朝とも言われます。それまで大和地方(奈良県)に拠点が置かれましたが、応神天皇からしばらくは河内(今の大阪府の一部)が政治の中心となるため、そう呼ばれます。ちなみに大阪府堺市から羽曳野市に広がる応神天皇陵(誉田御廟山古墳古市古墳群最大の前方後円墳)、仁徳天皇陵大仙陵古墳百舌鳥古墳群を代表する日本最大の前方後円墳)は一昨年、世界遺産に認定されました。

この時代、倭の五王の時代としても知られます。日本史の教科書で最初の方に出てくる讃・珍・済・興・武がその五王。讃は一般には仁徳説が有力ですが、履中という説も。いずれにしても古事記日本書紀の基本となった帝紀天皇家家系図を記した文書)も、この時代あたりからは信頼できると見ていいようです。

井上氏は、神武から第9代の開化までは架空、崇神・垂仁・景行は実在の可能性があるが、成務・仲哀は実在せず、第15代応神に至って「初めて実在の確かな天皇に巡り会えた」と説いています。

さらに、応神天皇は新しい王朝の創始者であると言及。理由として「応神の活躍した時代はちょうど、大和政権による統一国家が形成される以前であり、同時に朝鮮半島への出兵の最中であり、北九州はまだ大和政権と朝鮮諸国との戦いの中心の位置を占めていた。このような時と所で、北九州の軍事的指導者の一人が大和政権の王位を奪うという事件が起こっても不思議ではないだろう」と語っています。

崇神王朝から応神王朝へ移るこのあたり、邪馬台国と並び、古代史の最大のキモの部分ではないかと思っています。そう強く感じさせるのが戦後間もなく江上波夫氏が発表した「騎馬民族征服国家説」です。ちょっと詳しく書いてみます。

騎馬民族が大和征服?

この説によると4世紀の初め、朝鮮半島を南下してきた北方騎馬民族である任那出身の辰王が玄界灘を渡海し、九州を征服。その約100年後にこの勢力が東へ進み、大和を征服したとします。辰王は崇神天皇であり、東征したのが応神天皇であるとし、九州征服の下りは天孫降臨神話に、大和征服については神武天皇の東征に反映されているとするのです。

根拠として、応神王朝にあたる古墳時代中期、古墳の副葬品が呪術的な鏡や玉から、馬の埴輪や馬具、武器など騎馬民族的な埋葬品に変化したからとしています。また崇神天皇の呼び名である「ミマキイリヒコ」について、「ミマキ」は「任那の王」である、としました。

当時、学界やジャーナリズムでかなりの話題を巻き起こしましたが、学者たちは概ね批判的だったようです。反論の中身を見てみますと、①騎馬民族が日本を征服したことを記す文献が全く存在しない、②天皇家が農耕民的な祭祀を重んじ続けてきた、③副葬品の変化は急激なものではなかった、④神話においても大陸に起源を求めていないーなどが挙げられ、他にも、騎馬民族が持つ去勢手術について日本では江戸時代までその知識がなかったことなども反論の根拠となったようです。

ただ、思います。「日本を征服してやる」という思いがあったかどうかは別にして、朝鮮半島から入ってきた渡来人や先進的な文明は、土着の在来倭人と混在・混血しながら大和政権の誕生に一定の影響を与えたことだけは間違いないような気がします。

ダイレクトに「渡来人が征服」ではなく「ドミノ倒しのように、結果的に渡来人が大和政権誕生に何らかの影響を与えた」という感じ。まぁ話としては面白みに欠けてしまいますが。

度重なる朝鮮半島への出兵

さて話が飛んでしまいましたが、倭の五王に戻ります。

讃と珍は確定がなかなか難しそうですが、済が允恭天皇、興が安康天皇、そして以前も書きましたが武は雄略天皇、というあたりは、おおよそ落ち着いているようです。この時代は大和政権の勢力拡大がなされ、合わせて朝鮮半島への出兵が頻繁に行われています。豊臣秀吉は全国統一をした後、出兵していますが、大和政権ではこの二つを同時期にやっているのです。

当日の高句麗新羅百済史書にはこのあたり、よく出てくるようです。

高句麗の王の業績を刻んだ「広開土王碑」の碑文にも記述があります。中国と北朝鮮の国境付近に立つ巨大な石碑です。「百済新羅は元々、高句麗の属国で高句麗朝貢していた。ところが辛卯の年(391年)に倭が渡海して侵入し、百済・伽羅・新羅を抑えたため、高句麗朝貢しなくなった」。

この碑文の資料は今日、熊本県立装飾古墳館でいただきました。実はこの資料館を訪問したのは初めて。ここ数ヶ月、何度か行ってみようと思ったのですが、休館日だったり、コロナの影響で休館していたりで、本日ようやく実現したのです。

館内には熊本県内の装飾古墳石室のレプリカ、副葬品の実物、上に書いた広開土王碑の拓本など展示しています。結構入場者が多く、みな熱心に展示物を鑑賞していました。

f:id:noaema1963:20210711212412j:image
f:id:noaema1963:20210711212417j:image
f:id:noaema1963:20210711212408j:image

ほとんどの天皇陵が盗掘に

資料館のすぐ横には公園化された岩原古墳群が広がり、円墳や、長さ100メートルほどの前方後円墳(岩原双子塚古墳)。正月に見た宮崎県の西都原古墳群の縮小版という感じでしたが、熊本県北部の古墳群では最大だとか。西都原古墳群がいかに大規模なものか実感しました。

しかし考えてみると、世界遺産の仁徳陵は今日見た双子塚古墳の4倍の長さがあるわけで、とんでもなく巨大な陵墓であることが分かります。

ちなみに井上光貞氏によると、たいていの古墳は盗掘されており、天皇陵でさえも実は過去に盗掘に遭った例が多いそうです。盗掘は平安時代から記録があるらしく、成務天皇陵を興福寺の僧たちが盗掘して表沙汰になり、島流しになったとする記述も。

考古学者が推測するところでは天皇陵で盗掘を受けた形跡がないのは応神陵ただ一つであろうと言われているそうです。

天皇陵の発掘調査はほぼ許されていません。ただ2019年に仁徳陵の堤の部分が調査され、今年の秋にも古墳の保全を目的に再度調査が行われます。調査範囲は初回よりは少しだけ広がるようですが、多くの学者たちが望んでいるような仁徳陵の中心部分の調査には程遠いようです。天皇陵の調査は、天皇家の祭祀の場であることなどを理由に許可が降りず、文化財保護法の対象外ということですが、世界遺産にまで認定されている今、それで押し通せるのか違和感を感じます。

それに、それぞれの古墳がどの天皇の墓なのかを治定したのは幕末から明治。その時の判断が今も継続しているのです。その当時と今では考古学、歴史学などいろんな面で状況が余りに違い過ぎます。

とは言え、架空であることが間違いない天皇の墓も多数存在するわけです。現代の技術により宮内庁が求める結果と全く違う調査結果が出た場合、どう辻褄を合わせるのか。混乱が起きるのはまず間違いとは思います。ただそれを整えるのが現代に生きるものの義務だと感じるのは私だけでしょうか。