一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

青山を見にチブサン古墳を訪ねた

どうも。旅するおやじ旅生です。

好きな言葉に「人間至る処青山あり」というのがあります。一番好きな言葉と言っていいかもしれません。青山(せいざん)というのは墓のことで、人間(じんかん=世の中)はその気になればどこででも死ねる、故郷に固執せず広く世に羽ばたけ、といったような意味。幕末、西郷隆盛と一緒に海に身を投げた僧月性の漢詩の一部分です。

この言葉を聞くと、広々とした気持ちになります。どこででも死ねる、というのはどこででも生きていけるということの裏返し。幕末の志士たちは生と死が常に隣り合わせだったので、こういった清々しい表現ができたのでしょう。

落ち込んだ時、なんとなく行き詰まった時、この言葉を聞くと視野が広がる感じがするのです。直木賞作家の奥田英朗がこれを題材にした小説を書いています。「にんげんいたるところあおやまあり」と言い放つ上司が出てくる短編。爽快な読後感が得られる作品なので、お勧めです。「家日和」という短編集の一つです。

ところで「青山=墓」という感覚、古墳を見ていると「その通りだな」と思ってしまいます。公園化された古墳の多くは芝生が植えられ、墓とは言いながらも、ゆったりとした空気を醸し出し、青山という文字がぴったり。熊本県北部はまさに「至る処青山あり」なのです。

日本を代表する装飾古墳の一つ

というわけで4連休の初日、東京五輪開会式の前日にあたる本日、山鹿市にあるチブサン古墳やオブサン古墳、隣接する山鹿博物館を訪ねました。

 

チブサン古墳は6世紀前半に造られた前方後円墳倭の五王の時代が終わり、継体天皇が現れた頃。そして磐井の乱が起こった頃です。

後円部の内部に石室があり、その壁には赤、白、黒の三色で丸や三角、菱形などの図が描かれています。正面の二つ並んだ円が女性の乳房に見えることから「チブサン」と呼ばれたようです。保存状態が良好で、日本の装飾古墳を代表する古墳の一つとされています。

実は博物館職員の案内で石室に入って下の図柄を見ることができるのですが、現在、コロナ禍のため案内休止。残念ですが、すぐ横に置いてあったレプリカを撮ってきました。

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小学校か中学校の社会科の授業でこの古墳が出てきて、それが熊本にあると知った時、旅生は「すげえ」と幼心に思ったことを覚えています。両親に「連れて行って」とせがんだのですが、日々の暮らしに手一杯で学術的なことなど全く興味がない両親でしたので、あっさりスルーされました。

旅生少年の古代へのロマンはその後、どういうわけか萎んでしまい、大人になっても尋ねることはありませんでした。最初にチブサン古墳を知ってから約半世紀経った今日、ようやく現地を訪ねたというわけです。
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前方部の側から見たチブサン古墳。まさに青山ですね。この中に眠る赤い装飾文様を取り巻くかのように、びっくりするほどたくさんの赤トンボが飛んでいました。俳句にしたいけど、難しいんですよね、こういうの。
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石人のレプリカも。以前、筑紫の磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)のことを書きましたが、あの古墳も石人で有名。石人は北部九州限定と言っていいほど地域限定で見つかっています。しかしその石人も磐井の乱が終わったと同時に姿を消したと言われます。磐井の影響下にあった地域の独自の文化と見る向きもあるようです。岩戸山古墳については以下の記事を読んでみてください。

noaema1963.hatenablog.com

石室に入れたオブサン古墳

 暑い中、汗だくになりながらすぐ横のオブサン古墳へ。チブサン古墳の少し後に造られた円墳だとか。こちらは横穴式石室に入ることができました。もともとは石室の壁に壁画が描かれていたようですが、今はほとんど確認できないようです。


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石室内部の様子。まさか入れるとは思っていなかったので、恐る恐る撮影しました。
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石室内部から外を見た写真。
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博物館の駐車場まで汗だくになり帰り着きました。暑い中、かなり歩きましたが、価値ある訪問でした。古墳見物など誰もやってないだろうと思っていたのですが、意外や意外、何人かいらっしゃいました。熱心に観察している若者もいました。ドライブ中らしい若いカップルも。

ちなみに博物館も貴重な出土品がたくさん並んでおりました。特に昭和の終わり頃から本格的な調査が始まった方保田東原遺跡(山鹿市)の出土品は一部が国重要文化財に指定されており、価値ある品々を展示。何しろ弥生時代後期〜古墳時代前期の大集落遺跡。巴型銅器、銅鏡など「ヘェ〜」と驚かされる展示物ばかりでした。

考えてみるとこの遺跡、魏志倭人伝の「倭国大いに乱る」で卑弥呼を共立したクニの一つだった可能性高いわけですよね。それとも邪馬台国と争った狗奴国の一部だったのでしょうか。恥ずかしながら、この遺跡のこと、ほぼ何も知らなかったので、今後、調べていきたいと思います。