一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

ヤマト王権の姿次第にクリアに

どうも。旅するおやじ旅生です

古代史の本、相変わらず読んでいます。

最近はこうした中高年の行動を「学び直し」というみたいですね。ただ旅生にとって古代史はほぼスルーしてきた分野なので、正確には「直し」ではありません。ぼんやりと記憶していた古代の天皇や豪族の名前、いろんな事件が初めてきちんと整理されてきて、新鮮な思いで読み進めています。

越前からやってきた継体天皇

6世紀初頭、応神王朝が武烈天皇で途絶えると、ヤマト王権は後継者探しに躍起になります。そして大連(おおむらじ)の大伴金村らが、越前から後の継体天皇を連れ出します。応神天皇の5世の子孫という触れ込みで。ちなみにこの継体天皇が本当に天皇家(当時の言い方なら大王家)の血を引くものなのか、ただの越前・近江・尾張に地盤を持つ「喧嘩上等」の一豪族だったのか、今でもはっきりしないようです。

どちらにしても、ヤマト王権はここから「継体王朝」と言われる時代に入ります。

これまで何となくぼんやりとしか見えず、どこまでが史実なのか神話なのかはっきりしなかったヤマト王権も、この時代に入るとかなりクリアに見え始めます。

キーワードは「仏教伝来」「任那滅亡」「蘇我氏全盛」。このあたりに尽きるのではないでしょうか。6世紀の終わりには寺院や仏像が姿を見せ始め、古代人と私たち現代人が初めて感覚を共有できるようになるのです。

これらの時代の流れに大きく影響したのが、混乱を極めた朝鮮半島情勢なのです。

出兵の返礼としての文化輸出

4世紀末〜5世紀前半にあたる応神王朝の初期、任那を拠点とする朝鮮半島でのヤマト王権の勢力はかなり大きかったようですが、約100年をへたこの頃、その力はかなり衰えています。高句麗新羅百済が国力を増してきた一方、ヤマト王権の内政面の混乱(権力闘争)が続いたためとも言われています。

朝鮮半島三国の中でヤマト王権と一番関係が深かったのが百済。その百済新羅の圧迫を受け続け、何度となく倭国からの出兵を要請します。あまり戦果はあげられなかったようですが。

そのお礼として百済倭国に多くの知識人を送り出します。倭国からの軍の援助に文化面でお返しをしたということになります。

その一つとして入ってきたのが仏教でした。伝来は継体天皇の息子である欽明天皇の時代。6世紀半ばです。

そしてこの時代、仏教の受け入れに積極的な姿勢を見せ、一気に存在感を増すのが蘇我氏。出自は謎が多くはっきりしません。渡来人説もあります。初めて大臣(おおおみ)となった蘇我稲目、そして馬子、蝦夷、入鹿の4代が有名ですが、その前には韓子(からこ)、高麗(こま)と朝鮮との関係を示す名が続いています。政治家としても文化人としてもかなり先進的な一族だったようです。

対立したのが物部氏でした。こちらは大連(おおむらじ)。この当時は物部守屋。軍事・警察関係を受け持っていました。在来の神々を敬うべきとの発想から仏教の受け入れには大反対です。ちなみに大臣と大連はともに朝廷の最上位にあり、天皇を補佐する役職でした。

臣と連の違い

ところで臣と連の違いを今回初めて知りました。直木孝次郎氏の本によると「臣姓の豪族は葛城・平群・紀など地名を氏の名としているものが多い。大雑把にいうと元来土地に根をはった豪族で、遡れば天皇家の祖先と同格、少なくとも質的にそれほど差がなかったと考えられる」「連姓の豪族は忌部・弓削・土師など担当する職務に関係のある名を氏とするものが多い。朝廷に付随することによって権力を持つことができるのであって、天皇に対する隷属世は臣姓の豪族より強い」。

なるほど。そうでしたか。

それゆえ「臣姓の氏族には天皇家と密接な関係を結ぶものがあるのに、連姓の氏族には天皇家との通婚が極めてまれ」らしいのです。

それを証明するかのように、蘇我氏天皇家と血縁関係を結び、天皇外戚として権力を奮ったのです。敵対していた保守派の物部氏を打ち滅ぼし、やがては蘇我氏に反感を持っていた崇峻天皇を暗殺するという暴挙にまで出ます。

6世紀後半、そうした情勢の中で登場するのが蘇我氏との関係が濃密な推古天皇とその甥っ子の聖徳太子厩戸皇子)。この二人の存在によりヤマト王権は一つの高みに到達し、中央集権国家への道筋を作っていきます。そしてその素地を作ったのは、剛腕で何かと問題の多い蘇我氏の力あってのことなのかもしれません。

泥沼化する朝鮮半島との関わり

ところで朝鮮半島での外交。6世紀前半には任那が滅亡したにも関わらず、ヤマト王権はそれ以降も「任那復興」を合言葉に朝鮮半島への出兵を繰り返します。このあたりの朝鮮半島へのこだわり、奈良時代以降の日本人の動きからすると「なぜそこまで」と疑問を感じてしまいます。よほど応神王朝の頃の「成功体験」がヤマト王権の記憶に強烈に刻み込まれていたのでしょうか。

6世紀に入ってからの朝鮮外交はほぼ失敗の連続なので、早々に諦めて内政を充実させればいいのにと素人考えの現代人は考えてしまいそうですが。

その辺りも含めて次回へ。