一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

岩戸山古墳に磐井を再訪

どうも。旅するおやじ旅生です。

福岡県八女市の岩戸山古墳を再訪しました。前回コロナの影響で休館していて入れなかった歴史文化交流館が数日前にようやく再開したので、早速行ってみました。

県境越えは自粛すべきところですが、八女市といえば県境に隣接しており「ほぼ熊本県」と勝手に判断。ウィークデーで人も少ないだろうと自ら納得させました。

 

常設展示室には、継体天皇の時代、ヤマト王権に反旗を翻した筑紫君磐井にまつわる発掘品がずらりと並んでいます。ちなみに展示室には旅生一人。ゆっくり堪能できました。磐井に関してはブログで何回も書きました。その一つを貼り付けてきます。

noaema1963.hatenablog.com

国重文の石人石馬がずらり

国の重要文化財に指定されている「石人石馬」がかなりの数並んでいました。そのほとんどが手足を取り落とされたり、胴体の一部しか残っていなかったり。磐井の敗北とともにその文化的な象徴だった石人石馬をヤマトの兵士らが徹底して破壊したとされています。ただ無残で不完全なその姿ゆえに、そこに込められた人々の魂みたいなものが余計に滲み出してくるようで、ちょっとばかり感動します。

磐井の時代を紹介するビデオも分かりやすく、勉強になりました。古色蒼然とした歴史資料館が多い中、ここは時代の先頭をいく資料館という感じがしました。

前にブログで紹介した、地元熊本出身の豪族「火の君」についての紹介もありました。火の君については下の記事を読んでみてください。

noaema1963.hatenablog.com

熊本出身、火の君のことも紹介

資料としても配布されていたので、抜粋してみます。

磐井の乱後、ヤマト王権は胸形君(むなかたのきみ)や筑紫君、火・豊国等に睨みをきかせるため北部九州各地に王権直轄地である屯倉(みやけ)を設置し、不測の事態に備えつつ、百済救援、新羅征討を継続します。また北部九州には乱を鎮圧した物部氏や大伴氏一族が軍事的一団を従えて進出してきます。これにより北部九州の兵站基地としての最前線化が顕著になります」

「これら王権の動きに火の君も同調していたようで、筑前国嶋郡川辺里の大宝2年(702年)戸籍断片には『大領 肥(火)君猪手(ひのきみいのて)』の名が見えます」

「火の君は大王や吉備地方の有力者に対し自ら製作した石棺を海上輸送するなど、得意な海上活動能力を買われ磐井の乱後、九州各地に進出していきます。しかしこれはヤマト王権が目論んだ北部九州の兵站基地化を推進するための移住命令であり、勢力拡大のための進出ではなかったものと思われます」

なるほど。前回の記事では熊本側から見た火の君を紹介しましたが、今回の資料では福岡側から見た火の君の姿を知ることができました。

火の君の定説となっているのは海上活動が達者な人々だったということですね。そしてヤマト王権にも筑紫君磐井にもダブルスタンダードでうまく対応していたのではないかと勝手に想像しています。清国と島津藩の両方に礼を尽くした江戸時代の琉球王国を思い出しました。

6世紀の醍醐味

さらに思ったのが、6世紀前半の継体天皇の頃は、大連(おおむらじ)であった物部氏や大伴氏が「ブイブイ」言わせていた時代だったんですね。

しかしやがて大伴氏、物部氏の順で失脚。そして大臣(おおおみ)である蘇我氏が勢力を増し、やがては仏教文化が少しずつ花開き始めるわけです。その頃、北部九州では磐井の象徴ともいえる石人石馬は姿を消し、それに代わるように装飾古墳を盛んに造営。「古拙」とも言える図柄が石室を飾るようになります。

北部九州と大和における文化の変容がなんとも興味深く、それが6世紀の醍醐味のような気がします。参考に下の記事を。

noaema1963.hatenablog.com

 

展示室を見た後、すぐ横の岩戸山古墳を再度訪ねました。台風接近の影響で蒸し暑く、ツクツクボウシの鳴き声が響き渡っていました。もう9月も折り返しを過ぎたのに。

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この古墳の大きな特徴であり、石人石馬のレプリカが並ぶ「別区」の横には、彼岸花が咲いていました。不思議なことに、秋の訪れが例年になく遅れているにもかかわらず、今年は彼岸花の開花が早いようなのです。蝉時雨の下の彼岸花。自然というものは分からないものではあります。

そう言えば俳句の締め切りが近づいてきていました。

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