一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

卑弥呼は朝倉にいた?

どうも。旅するおやじ旅生です。

福岡県の朝倉市に行ってきました。古代史を語る上で重要な地であることを最近知ったためです。理由を以下に挙げてみます。

 

①平塚川添遺跡という大規模な環濠集落の遺跡がある。佐賀の吉野ヶ里と同様、魏志倭人伝に登場する弥生〜古墳時代の「クニ」の様子を知ることができる。

邪馬台国は朝倉にあったとする見方がある。

白村江の戦いにのぞむ渡海前、朝倉橘広庭宮(朝倉宮)が造られ、斉明天皇天智天皇の母)がその宮で没したという。

まずは資料館でお勉強

というわけで、知識を充填するため、まず朝倉市の甘木歴史資料館を訪問。初めて気付きましたが、10年ほど前に何度か入浴した温泉「卑弥呼の湯」のすぐ横でした。この温泉、トロトロとしてとにかくお湯の質が良く、温泉ファンの間ではちょい有名。

資料館では朝倉の古墳を紹介する企画展を開催中で、三角縁神獣鏡をはじめとする出土品が並んでおりました。館内では定期的に発行されるパンフレットがバックナンバーも一緒に配布されており、とても勉強になります。何部か持ち帰り、とりあえず車の中で熟読。すると平塚川添遺跡が代表的な場所であり、公園化されていることが判明。早速行ってみることに。場所は甘木インターチェンジのすぐ南側。資料館から車で5分ほどで到着しました。

復元された竪穴式住居や高床式倉庫、散歩コースも整備。この日はほとんど観光客はおらず、旅生は高床式倉庫の床に座り込んで初秋の風に吹かれました。彼岸花が綺麗でした。

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この遺跡は筑紫平野の北東の端。吉野ヶ里遺跡もそんなに遠くはありません。吉野ヶ里遺跡の記事はこちらで。

noaema1963.hatenablog.com

おそらく弥生時代後期、筑紫平野にはこうした環濠集落がいくつも存在し、2世紀の「倭国大乱」の時代には対立や合併が繰り返され、中には消えていった集落もあるのでしょう。そしてじわじわとヤマト政権の力が伸び、6世紀までにはこの地の豪族たちはヤマト政権に領土を「安堵」され、傘下に入ったのでしょう。

思うにヤマト政権の統治システムは、江戸時代とよく似ている感じがします。ちょっと乱暴かもしれませんが、大王家=徳川将軍家畿内の豪族=譜代大名・旗本、地方豪族=外様大名、と考えるとほぼ一緒ではないでしょうか。一番力の強い豪族に他の豪族が付き従い、逆にその豪族たちの地域的な権限が認められる形ですね。地方の豪族たちはやがて国造と呼ばれる存在になります。

話は少しそれますが、肥後の国造はどんな人々だったのか調べてみました。「阿蘇国造」「火国造」「葦北国造」「天草国造」が挙げられていました。阿蘇の国造はその後、肥後一ノ宮である阿蘇神社を司る阿蘇氏へと繋がるようですが、葦北、天草がどうなるのか分かりません。火国造は以前の記事でも紹介した「火の君」と呼ばれた「海洋豪族」(旅生の勝手な命名です)です。

noaema1963.hatenablog.com

地名も歴史を語ってくれる

話は②に変わります。①と重なる部分がだいぶあります。

邪馬台国の朝倉説を唱えているのは産業能率大教授の安本美典氏。心理学者であり古代史研究家という変わった肩書きです。安本氏の邪馬台国朝倉説に関する主張をWikipediaから引用し、さらに旅生が勝手に短かくまとめてみました。

 

▽朝倉地方には「甘木」をはじめとして「天」に関係する地名が多く見られるなど、日本神話に現れる地名が集中的に残っている。

▽朝倉地方を中心とした北九州地方の地名と大和地方を中心とした畿内の地名に驚くほどの酷似があり、発音がほとんど一致しているだけでなく相対的な位置関係もほとんど同じ。

▽朝倉地方には考古学的な遺跡が多く、邪馬台国の政治の中心地は朝倉地方にあったが、国としては筑紫平野一帯に広がった諸国の連合で吉野ヶ里遺跡もそれに含まれる。

▽朝倉地方は古来より村落が多い地帯であり、朝倉街道という地名が残っているように九州の交通の要所であった。

 

荒っぽくまとめるとだいたい以上のような感じです。地名と遺跡の存在が安本氏の主張の根拠のようです。YouTubeにいくつか講演の動画がありますので、うち一つを貼り付けさせていただきます。説得力があり、面白いです。聴く価値ありです。


www.youtube.com

時代は下って飛鳥時代の行宮

そして③。実はついても先日読み終えた小説に「白村江」(荒山徹)があります。百済滅亡から3年後の663年にあった白村江の戦いを題材にした作品です。開戦の21年前から倭国に亡命した百済王子の余豊璋を主人公に、倭の蘇我馬子葛城王子(天智天皇)、新羅の金春秋、高句麗の泉蓋蘇文らを登場させ、東アジアの激動を描いています。

この小説の後半部分で朝倉橘広庭宮が出てきます。甘木歴史資料館のパンフレット「温故」によりますとー。

この宮は「唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅ぼされた百済の復興を目的として、661年筑紫に造営された行宮であるが、斉明天皇はその目的を遂げることなく、同年朝倉宮でに崩じた」「所在地に関しては従前から旧朝倉町須川の地が提唱されてきたが、(中略)杷木宮原遺跡・志波桑ノ本遺跡・志波岡本遺跡・大迫遺跡において大規模な建物群が発見された。これらの建物群は立地・時期・性格等から朝倉宮関連の遺跡と推測される」ということです。

小説の中にも出てきましたが斉明天皇は、朝鮮出兵から帰国後に筑紫で応神天皇を産んだとされる神功皇后と重なる部分が多い(というか意識してそうしていたのかもしれません)感じがします。また日本書紀では、神功皇后卑弥呼としているようで、朝倉と卑弥呼との絡み具合はかなり濃いものがあります。温泉センターを「卑弥呼の湯」としたのも今となってはよく分かります。

筑紫平野一帯は古代へのロマンを掻き立てるものがたくさんあります。ただ奈良・大阪のように、有名どころの名前が絡んだ遺跡が少ないのが惜しいところ。それゆえ邪馬台国論争は近畿に比べてちょっと不利なのかもしれません。何も知らないくせに生意気な言い方かもしれませんが、考古学的には九州が有利、文献史学的には近畿が有利、という感じがしないでもありません。