一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

因幡の国ある意味すごい

どうも。旅するおやじ旅吉です。

山陰地方キャンピングカーの旅を終えて10日あまりが経ってしまいました。

忘れてしまわないうちに、鳥取県の後半「因幡の国編」を書いておきます。

江戸時代、因幡伯耆の二カ国を治めたのは鳥取藩の池田家でした。

特筆すべき藩主や武将は見当たらないようで、作家の司馬遼太郎さんは「街道をゆく 因幡伯耆の道」で「老臣たちの目は江戸(幕府)にむけられていて、領内を照り輝かせようという意欲には欠けていたように思える」「露骨にいえば、概して池田家のお侍さんたちは明治維新まで事なかれのみをつらぬいた」と厳しい分析を記しています。

司馬遼太郎好みの亀井茲矩

そんな中、司馬さんが大きく取り上げているのは、戦国武将の亀井茲矩(これのり)です。茲矩は出雲の尼子勢出身。尼子氏が滅ぼされると流浪の身となり、やがては豊臣秀吉の傘下に。鳥取城攻めで功績を挙げ、鹿野城鳥取市の西の郊外にあります)の城主になりました。

 

亀井氏は38年間にわたってこの地を領有。茲矩は領内を豊かにするために干拓や用水路の事業を積極的に行っており、今でも鹿野の町の人々から親しまれているようです。

江戸期になって間もなく、池田家が鳥取城主になったことから亀井氏は津和野に国替えになります。短い期間で亀井氏は鹿野を離れましたが、地元の民衆には強い印象を残したようです。

熊本で言えば加藤清正(加藤家も熊本藩主であったのは40年ほど)のような存在なのでしょうか。やはり城下町の基礎を作った、いわば「最初の男」は、存在感大きいんですね。

ちなみに熊本では江戸時代に行われた土木工事は、なんでもかんでも「清正公(せいしょこ、と呼びます)さんの功績」と言いますが、実はそうとばかりは言えず、加藤家改易後に入国した細川家の手による工事も多いのです。

細川家としては民衆に人気の「清正公の威光」を存分に利用したふしがあり、そうした清正伝説は喜んで受け入れたようです。そこが世渡り上手な細川家の知恵でした。

自転車で鹿野の城下町巡り

さて、鹿野の城下町を訪ねてみました。

町に入ったのが朝9時(早朝に国宝投入堂に行こうとしたのですが、単独入山は禁止。詳しくは前編で)。小さな城下町の真ん中あたりに観光案内所があり、女性の職員が掃除に余念がありません。

ハイエースとは言え、キャンピングカーでうろつくのはさすがに難しそうなので、「車を置かせてもらえますか」とその女性に声をかけると、にこやかに「どうぞどうぞ」と許可をもらえました。

山陰の女性は優しい雰囲気があり、いいですね。ついでに地図ももらい、説明を受けていると、レンタサイクルを発見。それも無料貸し出しというではありませんか。おまけに電動。

というわけで早速、城下町をゆっくりと自転車で散策。1枚目の写真は鹿野城址。2枚目が城下町の一角。ほとんど誰も歩いていませんでした。

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鹿野城跡は公園化されており、福岡県の秋月に似た、静かで落ち着いた雰囲気。

司馬さんもこの公園を訪れた際、森鴎外(亀井家が治めた津和野の出身)の二女小堀杏奴が講演に来たことを示す標柱があることに触れ、「(本人からすると)おそらくは気恥ずかしい限りであるに違いない」と書いています。

ところが面白いことに、公園の堀端には「司馬遼太郎先生がこの地に立たれた」といった意味の標柱も。おそらく「街道をゆく」の取材の時のなのでしょう。話が螺旋状に重なっており、司馬さんがご存命なら「気恥ずかしい限り」と思われたに違いありません。

これも司馬さんが書いたように「鹿野の人々の亀井茲矩への思いのつよさを感じてしまった」次第です。

やがて小雨がパラつきだしたので、茲矩と同じく尼子の家臣だった山中鹿之介の菩提寺、幸盛寺を訪ねた後、自転車を返却しました。

鳥取市の中心部に向かおうかと思いましたが、すっかり体が冷えてしまったので近くの「ホットピア鹿野」という温泉につかりました。なかなかいい湯でした。

午後からは、鳥取城周辺を巡りました。本当は自転車で鳥取の街中をうろうろしたかったのですが、思うようにレンタサイクル屋にたどり着けないし、キャンピングカーを停められるような駐車場も簡単には見つからず。やはり、折り畳み自転車があれば。

恐るべし、因幡伯耆の対立感覚

鳥取城に割と近い歴史博物館「やまびこ館」にまず行ってみました。

鳥取の古代から近代まで幅広く紹介してありました。特に記憶に残ったのが古代の因幡鳥取県東部)と伯耆(同西部)の違いについての解説。あまりに面白かったので解説シートを持って帰りました。ちょっと引用してみます。

奈良時代因幡国国司を見ると比較的身分の高い国司が派遣されており、公卿に昇進している家(人)が多く任官しています。一方で伯耆の国はそこまで昇進する貴族は見られません」「平安時代にも受け継がれています。因幡知行国主は摂関家が持っており、中世には天皇家の院分国となります。伯耆国は政治的な立場が弱い貴族や公卿まで昇進できないような家が知行国主となっていきました」

すごい。ここまで書くか。

同じ鳥取県なのに、何だこの対立意識。

「このやまびこ館、県の施設だったら問題ありでは?」と確認したら、鳥取市因幡の国の3分の2の面積を占めています)の施設でした。

熊本も戦国末期、加藤清正(肥後北部)と小西行長(相良領除く肥後南部)が並立していた期間がありましたが、幸か不幸か、関ヶ原で小西は破れ去り、南北の対立は生じないまま今に至っています。

「ある意味すごい所だな、鳥取」と感心しながら、鳥取城跡や因幡一の宮である宇倍神社を巡りました。両方ともなかなかいい所でした。特に鳥取城の石垣の上からは鳥取市中心部を一望でき、「俯瞰好き」の旅吉は満足でした。

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40年ぶりの鳥取砂丘

日暮れが近づいたので急いで鳥取砂丘へ。40年ぶりに訪ねたので頑張って砂丘の上まで歩きました。砂の粒の細かさには驚きました。

ちなみに、一人旅のおっさんはほとんどいませんでした。でもそんなのさほど気にならない気質、我ながら気に入っています。

駐車場でぼんやりしていると、ちょうど目の前に夕日が沈み、何とも言えない美しさ。

何かとドラマチックな一日でした。

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