一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

舞鶴‥思えば遠くへ来たもんだ

どうも。旅するおやじ旅吉です。

エレファントカシマシ宮本浩次のライブを見に行き、その翌日には日本海キャンピングカーの旅に出てから、1カ月。早いです。

昨日久しぶりに宮本のソロアルバム「縦横無尽」を聞きなおしたところ、コンサート会場の熱狂(もちろん声援なし。でも熱狂だったんです)ぶりがリアルに思い出され感慨にふけりました。

十六夜の月」とか「夜明けの歌」とか「浮世小路のblues」とか。「歌ってた歌ってた。間違いなく歌ってた」と。やっぱコンサートっていいですね。自分が思っていた以上に、記憶に刻まれています。

鎮守府があった海軍の町舞鶴

さて旅の続きです。

前回、京丹後市の久見浜湾を紹介しました。その日の夕方に宮津天橋立を観光しようかと思ったものの、一帯は駐車場待ちの車で大渋滞。早々に諦めました。で、宮津の町を一気に通過し、舞鶴の町へ。

舞鶴という地名を口にするだけで、「遠くにきたなぁ」と感慨深いものがあります。同じ若狭湾の港町である敦賀には2回も行っているのに、舞鶴は初めて。

舞鶴の町は東西に分かれています。

舞鶴湾はYを逆にした形になっていて、西側の港町が以前からの舞鶴。前回も説明したように細川幽斎の居城がありました(今では歴史公園に)。

東側の港が明治以降に軍港として発展。鎮守府日本海軍の根拠地として後方を統括した機関)の一つであり、佐世保、呉、横須賀と共に日本遺産に指定されています。戦後、ソ連からの引き揚げ船は東舞鶴の少し外れに入港しました。

日没後、西舞鶴に到着。街中に近い道の駅に車中泊しました。近くで食べたラーメン、美味しゅうございました。出雲で食べたラーメンと割と似ていたので、あれが裏日本(なんて今は使いませんよね)の味なのかも。

翌朝、東舞鶴に移り、旧海軍施設だったレンガ建物群を見学しました。いずれも明治の半ばに建てられたもので、今は国の重文。時間が早かったので中には入れず、外観だけ堪能しました。この手の観光施設の中はおおよそ一緒なので、あまり残念とも思えず。

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佐世保もそうですが、鎮守府のあった港は今では海上自衛隊の基地となっています。灰色の艦船が何隻も停泊していました。やはり迫力あります。

引き揚げ船の来る港

舞鶴といえば「引き揚げ船」のイメージが強いですね。実は引き揚げ船が入った港はほかにも博多港、呉港などいくつもありましたが、次第に舞鶴に一本化され、昭和33年まで引き揚げに使われていたそうです。何よりも「岸壁の母」が有名で、旅吉の両親がよく歌っていました。おかげで歌詞やセリフを覚えてしまいました。

それにしても旅吉が生まれる5年前まで、シベリアからの引き揚げが行われていたことを思うと、自分は「戦後」のにおいがまだまだ濃厚だった時代に生まれたんだな、とあらためて実感させられます。

舞鶴の繁華街から車で10分ほど北側にある舞鶴引揚記念館に行きました。

過酷な状況の中、重労働を強いられた方々の苦労を分かりやすく説明してありました。ガイドさんの中には引き揚げ者の世話をしていたらしい高齢女性もいらっしゃいました。

ただこれまで知らなかったのですが、比較的軽い労働に従事し、現地のロシア人と親しくしていた抑留者もいたそうです。ちょっと救われた気分に。そういった方がロシアの友人を描いた絵画も展示してありました。

記念館のすぐ北側には引き揚げ者の上陸地。現在、木材の工業団地(写真右側)があるあたりには、引き揚げの手続きや消毒をした建物があったそうです。おそらくは旅吉が生まれた頃まで、その建物は残っていたのかもしれません。引き揚げ船は沖に停泊し、上陸の際にははしけが利用されたそうです。短い桟橋が復元されていました。

シベリア抑留を経験した方、今どのくらい御存命なのでしょうか。おそらくかなり少なくなっているのだろうと推測します。
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昔の写真を貼り付けた案内板がありました。
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復元された桟橋にも行ってみました。5月の風景は青く透き通っていました。f:id:noaema1963:20220527150230j:image

和歌の才に助けられた幽斎

前に少し書きましたが、西舞鶴には、細川幽斎の居城田辺城が復元され、歴史公園になっていました。東舞鶴を訪ねる前の朝7時ごろ訪ねたので、資料館には入れませんでした。

関ヶ原の戦いの時、徳川側についた幽斎はこの城で石田三成軍に囲まれましたが、幽斎の和歌の才能を敬っていた後陽成天皇の説得で、石田軍は包囲を解いたのです。

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何度も書いている通り、旅吉は細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)親子の文武に秀でた生き方にとても憧れています。細川家を、幽斎が初代の「近世細川家」として見れば400年ちょっとの家筋ですが、さらに鎌倉室町まで辿れば700年の歴史を誇る家柄です。

江戸期の大名の出自にはかなり怪しいものが多いけれども、この細川家はごまかしの効かない、高い格式を持っていました。54万石の大大名でありながら、有職故実を受け継ぐ高家にも似た存在価値も併せ持っていたようです。

熊本では加藤清正の人気が高いものの(何しろ熊本城を作った人ですから)、旅吉は細川ファン。嘘っぽさがないんですよね。司馬遼太郎も細川好きを自認しており、現当主細川護煕の父護貞との対談なども本になっています。

なぜか細川ネタになると筆が走ります。