どうも。旅するおやじ旅吉です。
また鹿児島県まで車中泊にやってきました。
ただ車中泊するだけでは飽きてしまうので、列車の旅を組み込みました。
宮崎県との県境にある肥薩線の吉松駅に車を置かせてもらい、錦江湾に面した隼人まで約40キロの鈍行列車の旅です。
初めは、吉松→隼人→都城→小林→吉松と霧島の周りを一周しようかと思いましたが、乗り継ぎが難しく早々にあきらめました。
で、これまで素通りしていた隼人地区を観光することに。ところがこれが大正解でした。
まず向かったのが、隼人駅に近い「隼人塚」。三つの石塔と四天王の石像。写真がそれです。
最初に思ったのが、「一体いつの制作?」。説明版によると平安後期とか。なるほど。国史跡らしい。それも大正時代の指定。
で、すぐ横にある史料館に入ってみました。
小さい建物だけど、とてもきちんとしていまして。まず隼人とは何?というあたりから、わかりやすくパネルで説明してくれます。
熊襲は実在かどうかはっきりしないが、隼人は存在が確かであることを強調。朝廷の祭祀や芸能を担当する人々として一部は近畿地方まで移住させられた‥などなど。ちなみにこの移住者は畿内隼人と呼ぶらしい。始祖は神武天皇の大叔父になる海幸彦。まぁこのあたりは‥。
当時の朝廷は中華思想を手本に、大和から離れた地の人々を野蛮人、異民族とみなして、自分たちの優位性を吹聴していたようで、その犠牲になったのが隼人であり、蝦夷なのです。
なんとなく隼人や蝦夷は、縄文人の流れと見られがちで、確かにそう考えるのは魅力的ですが、古代史を知るにつれ、そうとばかりは言えないと個人的には感じています。
異民族とかではなく、たぶん北九州の人々とそう変わらない倭人だったような気がします。言えるのは、我々のような後世の人々を惑わせるほど当時の朝廷は策略家で、うまく南九州の人々を利用したということかな。
ところで、史料館には当然ながら隼人塚についても詳しい解説が。
面白かったのが、隼人塚の由来。
いくつかの説があります。「奈良時代初期にあった隼人の反乱の死者を弔うために当時建てられた」「正国寺という寺院の仏塔の跡」「明治の廃仏毀釈で破壊されたものを寄せ集めた」など。
廃仏毀釈⁈ まだ150年ほど前の話。もしこの説が正しいとすれば、明治初年の事実が正確に伝わらず、隼人をネタに美談として近代に刻まれたということになります。
何しろ大正年間には国史跡になっているんだから。伝説や伝承は下手すると50年あれば定着するということか。
なんだか、ありそうな感じがしないでもありません。さすがに違うとは思いますが。
たぶん正解は「正国寺の仏塔の跡」なのかな。
その後、歩いて鹿児島神宮へ。
大隅国の一宮で、南九州でただ一つ、平安時代の延喜式に記された式内大社だそう。歴史があり、格式が高いのです。戦前は官幣大社。山幸彦を祀っています。
ちなみに昨年、本殿などが国の重要文化財に指定されたそうです。霧島神宮のように巨大ではありませんが、上品な空気に包まれていました。
境内には、幕末の薩摩を象徴する薬丸自顕流の道場がありました。練習風景見たいなぁ。裂帛の気合いに満ちていることでしょう。
南九州はどこに行っても面白い。