一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

豊後の歴史を紐解き訪ねた

地元の歴史には詳しいが、隣県の歴史はよく知らないと言う人、意外と多いのではないかと思う。私もそうだ。とは言いながらも、鹿児島、佐賀、長崎、福岡は何かと歴史的な特徴が明らかなのでおおよそのことは分かる。

ところが大分県についてはほとんど知らない。大分には日田、杵築、臼杵など古い町並みを残した観光地が多く、何度も訪ねてその風情を楽しんできたが、「じゃ、そこの城主(あるいは領主)の名前言える?」と聞かれたら、まず答えられない。

そこで山川出版が出している「大分県の歴史」を近くの県立図書館に出向いて読んでみた。

なかなかのもんでした。宇佐神宮、国東半島の六郷満山、大友氏・・・。「そう言うことだったんだ」。「洛中洛外図屏風」のように靄っていた霧がサァーっと晴れた気がした。

大分県民にはちょっと失礼な分析かもしれないが、「戦国時代までは極めて重要な地域。豊臣の蔵入地になって以降、小藩分立状態となり歴史的印象が薄れた」という感じを受けた。

宇佐神宮はご存知の通り、全国に4万4千ある八幡宮の総本社。奈良時代東大寺造営の際に中央政権に近づき、平安時代においては九州最大の荘園領主に。国東半島の天台宗勢力と結びつき、京の文化に劣らない六郷満山文化を形成した。戦いの神様として知られ、蒙古襲来の際は盛大な加持祈祷が行われた。その後も武家からの信仰が極めて厚かった。

一方、キリシタン大名で有名な大友宗麟の大友家。鎌倉初期、九州を治めるため少弐氏、島津氏とともに送り込まれた家筋である。豊後・肥後・筑後の守護として名を馳せ、蒙古襲来の際は少弐氏と共に鎮西奉行として奔走。長年にわたる蒙古への備えのため最前線の博多に拠点を置いたこともあり、海外貿易都市である博多との関わりが深い。

ただ九州での領土拡大を目論む山口の大内氏とは常に対立。宇佐神宮も両者に挟まれ、翻弄された。大友氏は戦国末期には島津氏の侵攻も受けたが、豊臣秀吉九州征伐により島津氏は押し戻され、大友氏は豊後一国が安堵された。しかしわずか数年後、朝鮮出兵で大友軍は「敵前逃亡」の謗りを受け、改易される。

この改易が大分にとって大きな転換点となる。

秀吉は豊後を「豊臣家の蔵入地(直轄地)」とする考えがあったようである。細分化された豊後に多くの代官や大名が送り込まれる。秀吉は豊後を論功行賞のための場、調整のための場にしたかったのかもしれない。関ヶ原の戦いを経ても領主の入れ替わりしばらく続く。

ちなみに江戸時代の大分の藩と石高、Wikipedia先生によるとー。

杵築藩=小笠原家(4万石)→能見松平家(3万2千石)

高田藩=能見松平家(3万7千石→3万2千石で杵築藩に移封)

日出藩=木下家(3万石→2万5千石)

森藩=来島家(1万4千石→1万2千石)

府内藩=竹中家(2万石)→日根野家(2万石)→大給松平家(2万1千石)

臼杵藩=稲葉家(5万石)

佐伯藩=毛利家(2万石)

岡藩=中川家(7万石)

立石藩=木下家(5千石)

このほか、幕府直轄地(例えば日田)、複数の藩の飛び地(熊本藩は参勤交代の道筋に2万石を領していた)などが複雑に入り乱れていた。なかなか豊後一国としての力を発揮するには難しい状況だったのではないかと思う。全体的に山がちで平野が少なく、干拓などで領土を拡大する地形的条件に恵まれなかったのも大きいと推測している。

ただ古い町並みは今もいい感じで受け継がれている。それぞれの藩は小さかったが、熊本などに顕著に見られる徹底した「スクラップ&ビルド」志向は薄く、歴史や文化を大事にしているように思えるのである。

というわけで別府市に隣接する日出町に日帰り旅を挙行した。

日出藩の存在は薄々知っていたが、城跡など史跡を訪ねるのは初めてだ。

まずは日出城跡に。初代藩主の木下延俊は名前からも想像がつく通り、秀吉の正室高台院(ねね)の甥っ子。関ヶ原で寝返った小早川秀秋の兄にあたる。

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城跡には当時の建築物として鬼門櫓が残っている。明治の取り壊しを免れ、別の場所に移築されていたのを調査・解体し、7年前にもともとあった現在地に復元。すぐ横には歴史資料館もあり、日出藩の歴史を詳しく知ることができる。

歩いてすぐの場所にあるのが藩校致道館。以前は城内にあったが中学校を建てることになり、現在の場所に移築したという。

小藩の藩校らしくこじんまりとしているが、窓の外には別府湾。遠くに高崎山が見える。なんとも明るくキラキラした風景だ。中を見学していたら管理人のおじさんが出てきて説明してくれた。押し付けがましくなく、訥々と紹介してくれる。「木下家は移封されることなく幕末まで続きました。これもねねさんのお陰です」とおじさん。「時々、藩主がやってきて、ここに座って勉強の様子を見ていたそうです」。

ところで今も藩主の末裔は日出町に住んでいるのだろうか。「いえ、神奈川県に住んでいらっしゃいます。城下カレイ祭りの時には来られます。日出はカレイだけですから」と謙遜されたのが微笑ましかった。
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資料館と藩校を訪ねて知ったのだが、日出藩の創設には驚いたことに、前回の記事にも書いた細川忠興が大きく関係していたのだ。

初代藩主の木下延俊は忠興の妹を妻にしていた。

関ヶ原で徳川側についたにもかかわらず、戦後なかなか論功行賞が決まらずにいた延俊を徳川家に強く売り込んだのが、義兄の忠興だった。

実は丹波宮津城主だった細川家は、関ヶ原の数カ月前、日出に近い杵築一帯6万石を家康により加増されていた(これもまた飛び地)。島津、小西ら九州の反徳川勢に睨みを利かせるための措置と思われる。その関係で、杵築に近い日出に木下延俊は配置されることになったようだ。

細川家は関ヶ原後、豊前39万石に国替えとなり小倉に城を建てるが、その約30年後には加藤家改易を受けて肥後54万石の藩主となる。

私の行くところに忠興あり、である。ちょうど400歳の年の差。縁があるのだろう。考えてみると、このブログに何度「忠興」の文字を記したか分からないほどだ。

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その後、的山荘を見学。金山経営で財をなした福岡出身の実業家成清家の邸宅である。現在が成清家の手を離れ、町が所有。城下カレイを食べられる割烹料亭となっている。

皇室や著名人の訪問も多かったようだ。
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