一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

旅する旅生 豊後の石垣原を歩く

いろんな人々のブログを読んでいて気付いたが、私にはハンドルネーム(というのかな)がない。だから一人称で語る場合「私」と表記している。でもなんだか違和感あり。もっと気軽に自らを打ち出せる名前がないものか……。

タイトル通り「一人旅おやじ」では長過ぎる。

では旅に生きるので旅生(たびお)にするか。安易。なんかタピオカみたい。でもいいや。旅生で決定。

 

こんにちは旅生です。

前回に続いて豊後の国をめぐる旅。別府の人気回転寿司「亀正」で妻が昼飯食べてる間に、以前から気になっていた、石垣原の合戦跡をたどることに。

 

この合戦について、Wikipedia先生の説明を旅生なりにまとめてみるー。

 

関ヶ原の戦いを前に、全国は徳川側「武断派」と石田側「文治派」に分かれる。もちろん九州でも同様である。

豊前を治めていた黒田如水・長政親子、九州に睨みを効かそうと徳川から杵築一帯を加増されたばかりの細川忠興(丹後宮津城主)、そして肥後の北半分を治める加藤清正、は徳川側の武断派。一方、薩摩の島津、肥後南部を統治する小西、柳川の立花、佐賀の鍋島らは石田側の文治派だ。

石垣原の戦いは「九州の関ヶ原」と言われる。戦が決したのも同じ9月15日である。

では誰が戦ったのか。大友宗麟の嫡男義統と黒田如水がその中心人物。

数年前に秀吉により豊後一国を分捕られたばかりの大友義統は、皮肉にも今度は豊臣家から支援を受ける形で大坂から瀬戸内海を経て豊後入り。各地にバラバラになっていた旧家臣団を呼び集め、いまは高速道路の別府ICなどがある立石地区に陣取った。

片や中津城から南下してきた黒田如水の軍勢は、細川家筆頭家老で杵築城を預かる松井康之らと実相寺山一帯に軍を敷いた。石垣原を数キロ挟んで敵陣と対峙。如水は実はこの頃、九州を平定し、やがては徳川家と渡り合おうと野心を燃やしていたと言われる。そのあたりはNHK大河「軍師官兵衛」のクライマックスとなった。余談だが松井家は細川家の肥後入国から幕末まで、旅生がこの2月まで暮らしていた八代を統治した。

戦いは当初、大友軍の有利に見えたが、やがて黒田・松井軍が盛り返す。大友軍は有力武将であった吉弘統幸、宗像鎮統らが討ち取られ、やごて敗走した。ここで豊後の中世は完全に終止符を打った。

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ここまではWikipedia先生の説明に旅生の半端知識を混ぜ合わせた説明である。

回転寿司の「亀正」に妻を降ろし、グルメにはほぼ関心がない旅生は一人、石垣原を見物することにした。

まずスマホで場所を確認。なんと黒田・松井が陣取った実相寺山は亀正のすぐ目の前だ。標高は100メートルくらいだろうか。頂上には仏舎利塔。麓にはきちんと整備されたサッカー場グラウンドゴルフ場などがある。

車で頂上へ。業務車両などが数台。サボりにはうってつけの場所である。

説明板があったので読んでみる。写真を使った合戦地図があり、とてもわかりやすい。大友の陣地である立石地区は意外と近い。石垣原は今では住宅がびっしり立ち並び、ここで壮絶な死闘が繰り広げられたことなど知らない人の方が多いのではないだろうか。

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それにしても合戦場が完全な住宅街になっているのは珍しいように思う。関ヶ原は今も田畑がほとんどで、西南戦争の激戦地だった田原坂も畑や林が広がっている。まぁ大坂の陣の戦場跡は完全な都市となっているが。

そんなことを考えながら石垣原一帯を眺めていると、妻からライン。「もう食べ終わるから、迎えに来て」。妻も歴史探訪に興味があれば、旅はもっともっと楽しいのだが、などと思いながら実相寺山を下った。

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