一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

京都はやはり禅寺ではないか

先月訪ねたものの、初日だけ書いて二日目以降を後回しにしていた京都の旅について、記憶が薄れないうちに書きとどめておきたい。

前にも書いたが、京都の魅力は禅寺に結構集中していると思う。下の写真は祇園にある臨済宗建仁寺に展示してあった俵屋宗達の「風神雷神図屛風」。もちろん複製である。本物は京都国立博物館に大切に保管してある。

 

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日本美術ファンになってまだ日が浅い私だが、この屏風、たまらなく好きだ。風神雷神の躍動感は言うまでもない。その間の空間の広がりも見事。俵屋宗達本阿弥光悦とともに江戸初期、「琳派」の祖になった人だが、琳派作品が共通して持つ「間」というか「省略された空間」みたいなものは、今へと続く日本人の美意識に大きな影響を与えていると強く感じる。

琳派からはこの後、尾形光琳酒井抱一らが宗達や光悦を〝リスペクト〟する形で江戸や京都で作風を継いでいく。東京の出光美術館などに琳派の作品を多く見ることができる。彼らの作品に拒否感を持ってしまう人は極めて稀なのではないかと思う。若冲円山応挙のちょっと過剰なまでの描き込みが苦手なだけに、琳派のスッキリ感が私は大好きなのである。なにかキラキラしているし。

ここ20~30年、江戸絵画の再評価が進み、若冲をはじめ曽我蕭白長澤芦雪らが「奇想」をキーワードに紹介されることが多い。確かに面白いし、すごい。ちょっと怖くもある。作品の前に釘付けになってしまう。

しかしながら、やはり琳派をもっともっと表に出してほしい。まぁしかし、これまで十分表に出ているといえば出ているが。

禅寺のスッキリ感

京都の禅寺には、こうした「スッキリ感」が満載されている感じがする。

何しろ安土桃山時代、多くの武将たちが禅寺で茶をたしなみ、作庭にいそしんだ。今に至る日本文化は主に室町時代に東山で形成されたとされるが、安土桃山時代はそうした文化が煎じ詰められた時期だったのだろう。下の写真は建仁寺の石庭。
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今回の京都旅行で特に印象に残ったのが大徳寺だった。朝の開門を待って、10年ぶりくらいに訪ねた。

ここは禅寺の集合体のような寺院。かなりの数の塔頭があり、それぞれが戦国大名たちとのゆかりが深い。例えば高桐院は細川家、総見院や黄梅院は織田家、三玄院は石田家、芳春院は前田家といった具合だ。創建したり、帰依したり、関わり方は様々だったのだろう。
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ただ東山などの寺院と違い、大徳寺は年間通して拝観できる塔頭が限られている。ほとんどの塔頭は門前に「拝観謝絶」と張り出している。観光地化された京都において珍しい。

司馬遼太郎は「街道をゆく 大徳寺散歩」で「大徳寺山内の二十余の塔頭は、ことごとく第一級の美術館といっていい。同時に、どの塔頭も、室町期から江戸初期にかけての英雄豪傑、あるいは珠光、利休、遠州といった日本芸術の巨峰群たちの精神の巣窟でもあった」と記している。

六角氏ゆかりの塔頭

大仙院に入った。

1509年の創建である。こじんまりとしているが、方丈は国宝で、日本最古の玄関など創建当時の建物がそのまま残っている。方丈には狩野元信(狩野派2代目。狩野永徳の祖父)の花鳥図(国重文)などがある。国特別名勝である「書院庭園」は蓬莱山から流れ落ちる滝が大河となって海に流れ込む様子を表現。庭に面して利休が茶をたてた小さな茶室が残っている。

若い女性が案内してくれた。ひとしきり話を聞き終えて、気になっていることを質問してみた。この塔頭はどこの有力者とゆかりが深いのかー。

「六角氏です」。意外な名族の名に「へえ〜」と感心する。鎌倉時代から南近江を統治した守護大名だが、上洛する織田信長軍に打ち負かされたあたりから姿を消していく。ただこの塔頭が創建された時代は確かに六角氏にまだ勢いがあった頃である。

私の歴史感覚でいけば信長上洛あたりが時代の境目になっており、その前と後でなんとなく区分している。「前」は映像がイメージしにくい「はるか昔」。「後」は比較的イメージしやすい「かなり昔」。六角氏は「前」の人々であり、それだけに私の驚きは大きかった。それほど古い塔頭なのである。

清正が持ち帰った朝鮮灯籠

大仙院で御朱印をもらい、今度は秋の特別公開がされていた黄梅院へ。

1562年に織田信長が父信秀の追善のため創建した塔頭だ。この塔頭にも国重文の本堂や唐門などの建造物があるが、庭園が見事だった。利休が作庭した直中庭もある。加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠も。

朝の早い時間に訪問したのも良かったのだろう。いい具合に秋の光が差し込み、陰影が際立って美しかった。ガイドの女性の京言葉が遠くで聞いていると「さわさわ」と葉擦れの音のように感じられ、句作への思いが一気に高まる。

 

禅寺のさやけき朝の京言葉

 

京都は秋が一番だ。いろいろな特別公開があり、感動もひとしおである。
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大徳寺で一つ残念だったのが、コロナの影響で細川家ゆかりの塔頭「高桐院」を拝観できなかったこと。ここでは利休七哲の一人である細川忠興の存在を濃密に感じられる。

細川忠興の存在感

忠興は近世細川家の初代幽斎の息子である。1563年生まれ。私と400歳差だ。文化人として知られた父親の才能が遺伝したのか、忠興も文武ともに優れた武将として知られる。幽斎が明智光秀と親しかった関係で(大河ドラマ麒麟が来る」を参考にしてください)、光秀の娘たまと結婚。忠興はその気性の激しさゆえか、たま(後のガラシャ)を過剰なまでに偏愛した。

ちなみにガラシャ本能寺の変の後、「反逆者の娘」扱いとなり、丹波の奥地に数年間幽閉されている。その十数年後、関ヶ原の戦いの折、ガラシャは石田勢の手に落ちるのを嫌い、大坂の細川邸で自決した。常に悲劇に伴われた女性だった。

話はガラシャに逸れてしまったが、忠興はそうしたたくさんのエピソードを持つ戦国武将なのである。

何度も書いたが、私がこの前まで住んでいた八代はこの忠興の隠居の地であった。忠興が作ったとされる庭園や信長を追善する石碑が、市民にあまり知られることなく存在している。

高桐院には忠興の墓石がわりの石灯籠がある。忠興はこの笠の一部が欠けた石灯籠を大事に持ち歩いたらしい。利休ゆかりの石灯籠という。参勤交代の際も八代から江戸までこの石灯籠を常に身近においたという。おそらくは忠興邸があった現在の松井神社(八代城の北の丸)あたりにこの石灯籠が鎮座することも多かったのだろう。

足底筋膜炎の痛みを我慢しながら大徳寺を後にする。

秋空が高かった。

 

ちなみに足底筋膜炎はその後、ステロイド剤を注射したことで痛みが治っている。かかとに打つ注射の痛かったこと。