一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

松井康之が治めた丹後の久美浜

どうも。旅するおやじ旅吉です。

但馬の国(兵庫県北部)から峠を越すと丹後の国(京都府北部地域)に入ります。城崎温泉から東へと進むこの峠道は、標高こそ300メートル程度でしたが、延々と狭く曲がりくねった山道が続き、うんざりしてしまいました。

やがて目の前に明るく輝く久美浜湾が。丹後半島の付け根に位置しており、湾の南岸にはささやかながら久美浜の町が広がっています。

 

実はこの丹後地方、熊本とは縁があります。

加藤家改易後に肥後54万石を治めた細川家は、初代藤孝(のちの幽斎)が織田信長、息子の忠興が豊臣秀吉の家臣としてこの丹後地方を預かり、関ヶ原の戦いまで12万石を統治していました。

松井家ゆかりの地はどこに

藤孝は舞鶴、忠興は宮津、筆頭家老の松井家は久美浜にそれぞれ城を持っていました。

これまでブログには何度か書いてきましたが、この松井家は肥後統治時代、旅吉が以前仕事で赴任してい八代地域を治めていました。「薩摩への備え」という名目。このあたり詳しく知りたい人は「家老の忠義 大名細川家存続の秘訣」(林千寿著)が大変参考になります。ブログにも書いていますので、読んでみてください。

noaema1963.hatenablog.com

その松井家が最初に2万石の「城持ち」になったこの久美浜。以前から来てみたいと思っていました。

ただ今回の旅行の出発時点では久美浜に来ることは念頭になかったので特に予備知識がないまま到着。前出の本で「松井康之は久美浜を治め、丹後の水軍を率いて鳥取城攻めで活躍した」と読んだことだけはうっすら覚えていました。

丹後と言えば若狭湾にひらけた地のイメージが強いのですが、この久美浜は但馬との国境にあり、西方への進軍がしやすい場所なのです。

というわけで京都丹後鉄道の久美浜駅にある観光案内所へ。下の写真が久美浜駅

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しかし観光パンフを見ても松井の文字は全く見えません。

地元でもほとんど知られてないことを覚悟した上で、案内所の女性に「戦国時代に久美浜を治めた松井家にゆかりの場所って、どこかありますか」と質問したところ、案の定、困惑した表情に。

でもこの職員さんは親切で、諦めることなく関係者の方々から情報を集め、「たぶんこの方ならご存知だろう」という一人のガイドさんを探し出して電話連絡。旅吉は直接、その男性ガイドさんから電話でゆかりの地を丁寧に教えていただきました。

そのガイドさんの話により、松井家の居城だった久美浜城(松倉城)、松井康之が父正之の墓を立てた菩提寺の宗雲寺などがあることが判明。城址は登るのが大変そうなので諦め、宗雲寺に行ってみました。

久美浜の町並みから1キロほどの山間にある静かな寺でした。本堂の軒下には細川家と松井家の家紋がはためいていました。康之の父正之と母法壽の墓は、本堂裏の細い山道を上がった場所にありました。

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墓石は江戸時代半ばに建て直されたものらしいです。本当は住職さんにいろいろ話を聞きたかったのですが、一観光客をいちいち相手にされるのは迷惑に当たるのではないかと考え、やめておきました。

想像以上の景観の地

久美浜湾は砂州(小天橋という名で呼ばれています。雅ですね)で日本海と区切られています。一帯は旅吉の想像以上に風光明媚な場所で、天橋立ほどではありませんが、観光客もかなり目立ちました。

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旅から帰った後、前出の「家老の忠義」をちょっと読み返してみました。

松井康之が久美浜城の城主になったのは本能寺の変の後で、「当時の城郭や城下町の様子を伝える史料や遺跡は確認できないものの、久美浜湾を活用した城下町づくりが行われたものと考えられる」「城持ちとなった康之は、従来の家臣に加え、多くの牢人を召抱えたというので、久美浜城下はそれなりの規模の侍屋敷が形成されたと考えられる」などと記されていました。

 

 

夢千代日記の舞台を訪ねる

どうも。旅するおやじ旅吉です。

昨日、山陰若狭のキャンピングカー旅について、但馬国兵庫県北部)編を書いていたら、うまく保存できず、かなりの量の文章がふいになってしまいました。なぜだか下書きの機能がうまく働かなかったみたいです。あとで検索しても発見できませんでした。仕事時間中に作業の合間を縫って書いた文章だったので、結構ショック大きかった。

今日は休みなので、レクビィの「プラスLV +1」で甲佐町の津志田河川自然公園(通称乙女川原)にやってきました。パソコンを持ち込んでテザリングに初挑戦。無事にオンラインになったので、薫風に吹かれて但馬国編を再度書いてみることにしました。

但馬国への思い入れ

前回は鳥取砂丘の夕暮れまで書いていました。

5月2日午後7時すぎ、鳥取砂丘の駐車場を出発し、1時間ほどかけて兵庫県新温泉町にできて間もない「道の駅 山陰海岸ジオパーク浜坂の郷」に到着。GW期間中の道の駅はどこもキャンピングカーや車中泊らしき車でいっぱい。近くの七釜温泉で日帰り入浴しました。

 

旅吉にとって、この但馬地域に来るのは何となく思い入れがあります。

志賀直哉の「城崎にて」を読んだのが高校生の頃(内容は忘れてしまいました)。もう40数年前です。この小説に影響され、高校2年の時、友人と二人で列車旅をした際には城崎温泉の北西にある香住という海岸の町に立ち寄りました。そこで何をしたわけでもなくブラブラと海岸を散策したのをうっすらと覚えています。

旅吉が大学生だった40年ほど前には、浜坂から10キロほど内陸にある湯村温泉を舞台にしたNHKドラマ「夢千代日記」が放送されました。吉永小百合さんが主演のこのドラマは人気を呼び、やがて映画にもなりました。

かなり陰鬱な雰囲気の設定でしたが、当時の山陰はそうしたイメージがありました。ただ「山陰海岸ジオパーク」といった名称を見ると、「今はまた違った雰囲気で売り出しているんだなぁ」と時代の移り変わりを感じる次第です。以前に比べ、雪の量もだいぶ減ったと聞きます。

夢千代日記の舞台は湯村温泉

というわけで翌朝7時頃から、湯村温泉を散策しました。

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狭い谷間にある温泉ですが、近代的なホテルや旅館が立ち並んでいて、ドラマのイメージよりかなり明るく感じました。足湯がある河原には(ここはよくドラマで登場しました)湯煙が立ち上り、熊本でいえば阿蘇北部の杖立温泉によく似た規模と雰囲気でした。

足湯につかっていると、一人旅らしい40代後半くらいの割と綺麗な女性が少し離れた場所に座りました。「日常の仕事の疲れを癒しにきました」といった感じ。何だか気になります。

「この足湯は、もう少し温度が高ければまだ気持ちいいんだけど」と、旅吉が独り言にも取れるように呟くと、その女性は「そうですね。あと2度くらいかな」とニッコリ微笑んで返してきました。旅吉がちょっとドキドキしながら「ご旅行ですか? どちらから」と聞くと、「東京からです。夢千代日記という古い映画を見て、どうしても行きたくなって」と言うではありませんか。

ーなんて会話はありませんでした。足湯につかってそんな妄想をしていただけです。おやじらしいですね。悲しいくらいに。

後ろ髪を引かれるような思いで足湯を出て、旅吉はキャンピングカーへ。

夢千代日記の中では、「冬の夜には日本海の波の音が聞こえてくる」という設定でした。でもさすがに10キロくらい内陸なので、そんなことはなさそうでした。

重い病気を抱え呟くような語り口の吉永小百合、「貝殻節」を歌うガサツな芸者役の樹木希林(もしかしたら悠木千帆時代だったかも)など、プライムビデオで今見てもなお魅力的なドラマです。

余部鉄橋撮り鉄の聖地

湯村温泉を離れて、やはりこのドラマによく出てくる余部鉄橋を見にいきました。

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この鉄橋は明治45年、山陰本線に開通。山陰海岸と一体化したその姿は有名で、旅吉も高校生の時の旅でこの橋を渡ったことがあります。ただ鉄橋の下には集落が広がっており、「下に住んでいる人は怖くないのか」と思ったのを覚えています。

その予感が的中するように、夢千代日記が話題になっていた昭和61年、回送されていた客車7両が強風で約40メートル下に転落。水産加工場で働いていた女性5人と車掌1人が亡くなりました。これはショッキングでした。夢千代日記の陰鬱な雰囲気とこの事故がクロスし、強烈な印象が刻み込まれました。

余部鉄橋は2010年まで利用され、今は掛け替えられています。今は余部橋梁と呼ばれているようです。橋の下には道の駅や資料館があり、橋のすぐ脇にある余部駅までエレベーターで登れます。撮り鉄には聖地のようで、この日も朝9時前からたくさんの観光客がいました。

余部鉄橋の橋脚部分は一部今も残してあり、加工場があったあたり(道の駅のすぐ横)には鎮魂の像が据えられていました。

その後、高校時代の旅で海岸をぶらついた香住へ。

駅や海岸を見ましたが、残念ながらほとんど覚えていませんでした。町のスーパーで弁当を購入し、港でゆっくり食べました。この日の3箇所目の訪問地だったのですが、ようやく朝食にありついた旅吉でした。

それにしても但馬地域、電波の入りが悪かったなぁ。

 

 

 

因幡の国ある意味すごい

どうも。旅するおやじ旅吉です。

山陰地方キャンピングカーの旅を終えて10日あまりが経ってしまいました。

忘れてしまわないうちに、鳥取県の後半「因幡の国編」を書いておきます。

江戸時代、因幡伯耆の二カ国を治めたのは鳥取藩の池田家でした。

特筆すべき藩主や武将は見当たらないようで、作家の司馬遼太郎さんは「街道をゆく 因幡伯耆の道」で「老臣たちの目は江戸(幕府)にむけられていて、領内を照り輝かせようという意欲には欠けていたように思える」「露骨にいえば、概して池田家のお侍さんたちは明治維新まで事なかれのみをつらぬいた」と厳しい分析を記しています。

司馬遼太郎好みの亀井茲矩

そんな中、司馬さんが大きく取り上げているのは、戦国武将の亀井茲矩(これのり)です。茲矩は出雲の尼子勢出身。尼子氏が滅ぼされると流浪の身となり、やがては豊臣秀吉の傘下に。鳥取城攻めで功績を挙げ、鹿野城鳥取市の西の郊外にあります)の城主になりました。

 

亀井氏は38年間にわたってこの地を領有。茲矩は領内を豊かにするために干拓や用水路の事業を積極的に行っており、今でも鹿野の町の人々から親しまれているようです。

江戸期になって間もなく、池田家が鳥取城主になったことから亀井氏は津和野に国替えになります。短い期間で亀井氏は鹿野を離れましたが、地元の民衆には強い印象を残したようです。

熊本で言えば加藤清正(加藤家も熊本藩主であったのは40年ほど)のような存在なのでしょうか。やはり城下町の基礎を作った、いわば「最初の男」は、存在感大きいんですね。

ちなみに熊本では江戸時代に行われた土木工事は、なんでもかんでも「清正公(せいしょこ、と呼びます)さんの功績」と言いますが、実はそうとばかりは言えず、加藤家改易後に入国した細川家の手による工事も多いのです。

細川家としては民衆に人気の「清正公の威光」を存分に利用したふしがあり、そうした清正伝説は喜んで受け入れたようです。そこが世渡り上手な細川家の知恵でした。

自転車で鹿野の城下町巡り

さて、鹿野の城下町を訪ねてみました。

町に入ったのが朝9時(早朝に国宝投入堂に行こうとしたのですが、単独入山は禁止。詳しくは前編で)。小さな城下町の真ん中あたりに観光案内所があり、女性の職員が掃除に余念がありません。

ハイエースとは言え、キャンピングカーでうろつくのはさすがに難しそうなので、「車を置かせてもらえますか」とその女性に声をかけると、にこやかに「どうぞどうぞ」と許可をもらえました。

山陰の女性は優しい雰囲気があり、いいですね。ついでに地図ももらい、説明を受けていると、レンタサイクルを発見。それも無料貸し出しというではありませんか。おまけに電動。

というわけで早速、城下町をゆっくりと自転車で散策。1枚目の写真は鹿野城址。2枚目が城下町の一角。ほとんど誰も歩いていませんでした。

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鹿野城跡は公園化されており、福岡県の秋月に似た、静かで落ち着いた雰囲気。

司馬さんもこの公園を訪れた際、森鴎外(亀井家が治めた津和野の出身)の二女小堀杏奴が講演に来たことを示す標柱があることに触れ、「(本人からすると)おそらくは気恥ずかしい限りであるに違いない」と書いています。

ところが面白いことに、公園の堀端には「司馬遼太郎先生がこの地に立たれた」といった意味の標柱も。おそらく「街道をゆく」の取材の時のなのでしょう。話が螺旋状に重なっており、司馬さんがご存命なら「気恥ずかしい限り」と思われたに違いありません。

これも司馬さんが書いたように「鹿野の人々の亀井茲矩への思いのつよさを感じてしまった」次第です。

やがて小雨がパラつきだしたので、茲矩と同じく尼子の家臣だった山中鹿之介の菩提寺、幸盛寺を訪ねた後、自転車を返却しました。

鳥取市の中心部に向かおうかと思いましたが、すっかり体が冷えてしまったので近くの「ホットピア鹿野」という温泉につかりました。なかなかいい湯でした。

午後からは、鳥取城周辺を巡りました。本当は自転車で鳥取の街中をうろうろしたかったのですが、思うようにレンタサイクル屋にたどり着けないし、キャンピングカーを停められるような駐車場も簡単には見つからず。やはり、折り畳み自転車があれば。

恐るべし、因幡伯耆の対立感覚

鳥取城に割と近い歴史博物館「やまびこ館」にまず行ってみました。

鳥取の古代から近代まで幅広く紹介してありました。特に記憶に残ったのが古代の因幡鳥取県東部)と伯耆(同西部)の違いについての解説。あまりに面白かったので解説シートを持って帰りました。ちょっと引用してみます。

奈良時代因幡国国司を見ると比較的身分の高い国司が派遣されており、公卿に昇進している家(人)が多く任官しています。一方で伯耆の国はそこまで昇進する貴族は見られません」「平安時代にも受け継がれています。因幡知行国主は摂関家が持っており、中世には天皇家の院分国となります。伯耆国は政治的な立場が弱い貴族や公卿まで昇進できないような家が知行国主となっていきました」

すごい。ここまで書くか。

同じ鳥取県なのに、何だこの対立意識。

「このやまびこ館、県の施設だったら問題ありでは?」と確認したら、鳥取市因幡の国の3分の2の面積を占めています)の施設でした。

熊本も戦国末期、加藤清正(肥後北部)と小西行長(相良領除く肥後南部)が並立していた期間がありましたが、幸か不幸か、関ヶ原で小西は破れ去り、南北の対立は生じないまま今に至っています。

「ある意味すごい所だな、鳥取」と感心しながら、鳥取城跡や因幡一の宮である宇倍神社を巡りました。両方ともなかなかいい所でした。特に鳥取城の石垣の上からは鳥取市中心部を一望でき、「俯瞰好き」の旅吉は満足でした。

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40年ぶりの鳥取砂丘

日暮れが近づいたので急いで鳥取砂丘へ。40年ぶりに訪ねたので頑張って砂丘の上まで歩きました。砂の粒の細かさには驚きました。

ちなみに、一人旅のおっさんはほとんどいませんでした。でもそんなのさほど気にならない気質、我ながら気に入っています。

駐車場でぼんやりしていると、ちょうど目の前に夕日が沈み、何とも言えない美しさ。

何かとドラマチックな一日でした。

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1週間の車中泊暮らし報告

どうも。旅するおやじ旅吉です。

鳥取編の続きを書く前に、一週間のキャンピングカー生活がいかなるものだったかを報告し、今後の課題としたいと思います。

▽サブバッテリーの充電

出発前は、外部充電なしで2泊くらいは大丈夫ではないかと予測していたので、道の駅で2泊したら、1泊はRVパークかオートキャンプ場に泊まる、と計画していました。

ところが連日、1日平均100キロ以上(特に初日は250キロ以上)車を走らせていた結果、走行充電されて、外部電源から充電する必要はありませんでした。結局、5カ所の道の駅に泊まり、夜間は就寝するまで照明とテレビはつけっぱなし、おまけに冷蔵庫は1日中稼働させていました。

旅吉のキャンピングカーには電圧計はあるものの、サブバッテリーの残量計はついていません。ネットで調べた感じでは、電圧計が12・5〜14・5Vを示していれば大丈夫のようなので、それは常に注意していました。やはり残量計は必要です。

7日間で走った距離は1300キロほどでした。ただ、あまり移動距離の少ない旅の場合は、この方式は通用しないですね。ちなみに給油地点はスタート前の熊本市、次が出雲市、最後が舞鶴市でした。いずれも50リットル前後。燃料費が高騰しているので痛い部分です。帰りは大阪〜北九州がフェリーだったので、まだ舞鶴給油のガソリンが残っています。

▽走行

今回の旅の前半は北西の風が強く、横風にハンドルを取られそうになる状況に悩まされました。背が高く、横幅があまり広くない車体構造が原因で、YouTubeではしばしばそのことについて言及されています。

特にひどいのが、高速道路のトンネルを抜けた直後に高い橋の上を通過する時。「ボン」という風音とともに車体が少しふらつき、思わずハンドルを握り締めてしまうことが、何度も何度もありました。

ガッチリしたタイヤに付け替えるなど、いろんな方法があるのでしょうが、燃費がさらに悪くなりそうで、少々迷ってしまいます。

ちなみに通常の加速やスピードは何の問題もありませんでした。

▽断熱

旅行期間中、例年になく全国的に低温傾向が続き、最低気温10度程度、最高気温が20度前後といった3月下旬くらいの天候でした。

旅吉のキャンピングカーはレクビィのバンコン「プラスLVプラス1」。標準サイズのハイエースをベースにしています。車体の外観はほぼ加工されていないので、窓ガラスはそのまま。どうしてもこの広い窓ガラスを通して冷気が車内に伝わってきます。

島根県の道の駅湯の川で車中泊した時は最低気温が10度以下になったので、朝方、寒さで目が覚め、FFヒーターを入れました。カーテンのみに頼らない窓ガラス対策の必要性を感じた次第です。また、これからは暑さにどう対処するかが重要な課題になりそう。購入の際、迷った末にエアコン設置を見送った結果がどう出るか、気になります。

▽収納

納車から3ヶ月以上。収納の良さが「プラスLVプラス1」の一番の長所ではないかと思っています。収納扉の開け閉めもしっかりとしており、走行中に扉がガタついたりといったこともありません。ただこれから1年、2年とたった段階で、扉がゆるゆるにならないか、ちょっと気になります。

収納に関してあと1点。実は折り畳み自転車を積み込んで旅するのが、旅吉にとって重要な項目なのですが、実際に自転車屋さんで実験してみたところ、最後部の空間には一番小さい折り畳み自転車(店員は災害時対応の自転車と言っていました)しか積み込めないことが判明。それでも積み込めるのなら十分ではないか、と迷ったものの、今のところ保留です。

今回の旅で、松江市鳥取市などの地方都市を観光するのは自転車が一番と痛感しました。どうにか「小さい方から2番目」くらいの自転車を積み込む方法を考える必要ありです。

▽寝心地

一人でゆったり後部座席を使えたので何の問題もありませんでした。ただ夜間にトイレに行った後、再び寝付けなかったり、朝方に寒さで目が覚めたりで、寝不足気味が続きました。なかなか熟睡モードに入れませんでした。いわば睡眠のリズムが作れないまま旅を終えてしまいました。長期の一人旅、とても大事なことに思えます。

▽食事

「プラスLVプラス1」にはシンクがついています。でも納車以来、一度も使っていません。理由はタンクに水を入れたり、排水したり、が面倒だから。で、シンクのあたりはいろんな物を置くスペースになっています。

ただ思います。このシンクを使えば、歯磨きしたり、ちょっとした洗い物をするのにかなり便利ではないかと。自炊をする弾みになるかもしれません。

今回の旅での食事は、一番多かったのが外食(主に麺類でした)、次がコンビニや道の駅の弁当類。自炊というのはほとんどしませんでしたが、1合半炊ける炊飯器(300Wなのでギリギリ使えました。400Wのインバーター付けてます)でご飯を炊いて、道の駅で買った惣菜類をおかずにして食べたことが2回だけありました。

もっと自炊するだろうと、フライパンや鍋を持って行ったのですが、結局使わずじまいでした。でもガスコンロは結構使いました。お湯を沸かして何度かコーヒーを入れたり、カップ麺を作ったことも一度ありました。

ちなみに下の2枚の写真は自炊した場所です。上の写真は島根県江津市の廃校となった跡市小学校跡。あまりの山陰らしい建物に感激し、「どれ、飯でも炊いてみるか」という気になりました。下の写真は鳥取県三朝温泉鹿野町鳥取市郊外の城下町)を結ぶ佐谷峠。伯耆国因幡国を跨ぐ峠なのです。

2カ所とも普通の熊本県人なら、ほぼ行くことがない場所。そういった場所に行くと、ついつい記憶に残る行動を取りがちな旅吉です。

補足ですが、車中泊には無洗米がいいですね。

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鳥取編 伯耆の国は賑やかでした

どうも。旅するおやじ旅吉です。前回から改名しました。

前回は島根県の出雲地方について書きました。今日は隣の鳥取県について。

街道をゆく」を逆走

とは言いながら、書き出しは出雲の国の東端(島根半島の一番東側)にある美保関灯台になります。そして米子から大山の麓を走って倉吉、鹿野、鳥取市中心部へと向かうルート。

実はこのコース、司馬遼太郎が「街道をゆく 因幡伯耆の道」で辿った道筋を逆に進む形。司馬さんは鳥取県の東側から入り、最後には美保関灯台へ向かいました。この本を松江のマクドナルドで読み返していて気付き、「それならば」と逆コースを辿ることにしたのです。

 

美保関灯台へは松江から中海に浮かぶ大根島・江島経由で1時間ほど。大根島へは橋でつながっているとばかり思っていましたが、実はそうではなく、埋め立てて作ったと思われる直線道路が延々と続き、島に渡っている感じはあまりしません。水深が浅いからこそできたのでしょう。

ちなみに江島から弓ヶ浜半島に渡るには、テレビのCMで有名になった「ベタ踏み橋」を通ります。下の写真がそれ。実際に行ってみるとそれほどの傾斜ではなく、旅吉のキャンピングカーもスイスイと越えて行きました。

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さて美保関灯台。司馬さんはこの灯台とすぐ横の官舎跡を見て「十九世紀の西洋が小天地として存在している感じなのである」と表現しています。ちょっと大袈裟な感じがしないでもないですが‥。

明治期のお雇い西洋人が設計した最後の灯台らしく、確かにアドリア海あたりにあってもおかしくないような趣ではありました。

官舎跡はカフェになっており、日本海を望めるカウンター席には司馬さんも座ってカレーライスを食べたようですが、旅吉が訪ねた時は、ちょうど昼時でお客が多く、結局、カフェの外にある展望所から、怖いくらい広大な日本海を堪能しました。

何回もブログで書いてきましたが、こうした広々とした外洋の水平線を見るのが大好きで、なぜか背骨が伸びてきます。ただ心の一角には恐怖感も同居しており、大海に吸い込まれてしまいそうな少し不安定な気持ちにもなるのです。

ちなみに司馬さんは書いていませんでしたが、この灯台から30キロほど沖合では昭和2年、連合艦隊の訓練中、軍艦同士が衝突して沈没する事故が発生。百人以上の兵士がなくなり、「海の八甲田事件」と言われたようです。

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帰路、司馬さん一行がそうしたように旅吉も美保神社に立ち寄りました。かなり辺鄙な場所にある神社なのですが、神話の国出雲らしく、歴史の風格を感じさせる立派な神社でした。前回も載せましたが、再度、境内の写真を一枚。

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伯耆因幡の違い

再び弓ヶ浜半島に戻り、米子方面へ。弓ヶ浜半島砂州なので古来、農地としてはほぼ使いものにならなかった土地でしたが、鳥取藩池田家の時代、水路が作られ、綿栽培が盛んになり、藩の大きな収入になったとか。このあたりについても司馬さんはたっぷりと説明してくれています。

ところでこの本で何度も書かれているのが、米子を中心とする伯耆地域と、鳥取を中心とする因幡地域の風土の違い。お互いに批判し合う様子がいくたびか出てきます。

面積が狭いこともあり鳥取県には市が4つだけ。東から鳥取因幡)、倉吉、米子、境港(以上は伯耆)。でも確かに律令の時代に分けられた地域性を感じました。

米子・境港あたり(伯耆の国の一角)の「賑やかな」雰囲気と、鳥取市一帯(因幡の国の一角)の「しっとりとした」雰囲気。

人口は(平成の大合併以来、人口比較は意味のないものになりましたが)、米子が14万人、鳥取が18万人。でもなんと言いますか、米子の方が派手な空気があったような気がします。隣接して島根県松江市出雲市が控えている、という意識が旅吉にあるせいかもしれません。

今回の旅では山陰地方から若狭地方まで走りましたが、やはり最も活発な空気に包まれているのは出雲〜米子でした。それを証明するかのように、この区間だけ海沿いを走る高速道路(山陰道山陰近畿自動車道など)が有料。あとの区間は(つながっていない部分も結構ありましたが)無料でした。この無料高速にはずいぶん助けられました。

米子では皆生温泉に入りました。4年前に行った時と同じ温泉施設。まぁまぁでした。山陰の温泉は柔らかくて悪くないものの、どうしても九州のようなインパクトの強さがありません。あちこちに温泉施設が点在していますが、比較的規模が小さく、ダイナミックスさに欠けるというか。

ちなみに3年前の山陰旅行を思い出しながら書いた記事はこちら。ブログを書き始めてまもない頃に書いた記事。この頃は漫然と書かずに、毎回しっかりとテーマを絞り込んでいたな、とつくづく感じています。

noaema1963.hatenablog.com

そして倉吉へ。司馬さんは「伯耆国は全て大山の裾野にある」といった感じの表現をされていましたが、その通りだと思いました。米子からなだらかな裾野を回り込む感じで進むと、海岸から10キロほど内陸の倉吉に到着しました。

寅さんが歩いてそうな町

男はつらいよ」の第44作「寅次郎の告白」のロケ地になった場所。満男のガールフレンド泉ちゃんが家出してやってきた町がこの倉吉でした。

守護大名山名氏の城があった打吹山の北側に、古い町並みが広がっています。国の重要伝統的建造物群保存地区(何回書いても間違いそうな単語)に指定されており、通称は「白壁土蔵群」。山陰ならではの石州瓦と白壁のコントラストが美しい町並みです。

全国の保存地区をたくさん見てきた旅吉ですが、この倉吉の町並みはかなり高い位置にランクインしました。日田市(大分県)と同じレベル。町全体が静かで、山田洋次監督が最も好みそうな「寅さんが歩いてそうな町」なのです。

ただ司馬さんは「街道をゆく」の中で、久しぶりに訪れた倉吉(保存地区ではない地域)について「古格なたたずまいが消え失せた」と嘆き、保存地区についても「確かに古い街並みは残されている。しかし幹線のほこりっぽさを車体につけた車が押し込んでくるために、せっかくの町並みがうらぶれて見えた」とこぼしています。

司馬さんがこの本を書いたのは昭和の終わりにあたる1985年。バブル期を目前に控え、今とは違う「荒っぽさ」が全国各地にあふれていたのかもしれません。f:id:noaema1963:20220506180521j:image
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この日は倉吉郊外の三朝温泉に入りたかったのですが、どこの宿泊施設に電話しても「今日は日帰り入浴はお断りしています」。GWなので仕方ありません。30分ほど電話かけまくった末、諦めました。

鳥取といえば国宝投入堂

翌朝、以前から行きたかった国宝投入堂を目指します。鳥取といえば投入堂

この日も早朝6時から行動を開始したので、三朝温泉から山道を10キロほど分け入った投入堂の駐車場に着いたのは7時前でした。

「駐車場から10分も歩けば行き着くだろう」と気軽に考えて受付に行ったのですが、かなり甘い考えであることが判明。説明板によると、受付から険しい山道を1時間近く歩かねばならず、それなりの山歩きの装備を呼び掛けています。おまけに「危険なので一人での入山は禁止」だとか。それも入山は「朝8時から」。

受付あたりを掃除していた関係者の方に「どうにかなりませんか」と交渉するも、「山道で怪我をする人が多いので、警察から指導されているんですよ」と気の毒そうに言われ、泣く泣く諦めました。どうも前夜の三朝温泉以来、運気が低迷。

仕方なく、駐車場近くの遥拝所から遠目に見るにとどめました。

天気が良かったので、意外とクリアに見ることができました。
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気を取り直し、旅吉は一路、因幡の国へと続く峠を目指します。
長くなるので次の回へ。

出雲の古代史の現場を訪ねた

どうも。旅するおやじ旅生あらため旅吉です。

なぜ改名したか。特に大きな理由はありませんが、なんとなく旅生という名前がしっくりしないから。旅吉の方が愛嬌があるし、リズムもいいし。

で、旅吉はこのGW期間中、1人でキャンピングカーに乗って熊本から福井県小浜市まで日本海を旅してきました。なぜ日本海沿いを選んだかというと、観光客が比較的少なそうだし、因幡・但馬・丹後・若狭はだいぶ行っていないから。

帰りの大阪南港〜新門司のフェリーを入れると6泊7日の結構な長旅になりました。記録の意味も含めて、数回にわけて印象に残った場所を紹介します。

まず最初は、3年前に行ったばかりではありますが、島根県の出雲地方。

古代史に興味を持って1年半。以前とは違う見方で出雲を楽しむことができました。

みなさんご存知の通り、出雲は神話の里です。何しろ古事記の神代では「国産み」「天孫降臨の神話」と並び、「出雲神話」が重要なパートを占めています。大雑把に言えば、アマテラスの弟であるスサノオ高天原を追い出されて出雲に降り立ち、国作りをして、やがてはスサノオの血を引くオオクニヌシ高天原に「国譲り」をするというストーリー。

古事記だけではなく、古代の出雲を特徴付ける書物として、奈良時代に出雲の国造(地元の有力者。今で言うなら県知事レベル?)が編纂した「出雲國風土記」がほぼ完全な形で残り、古代の出雲の様子を今に伝えています。ちなみに他に残っている風土記には常陸、播磨、豊前肥前のものがありますが、出雲に比べ完全ではなく、おまけに中央から派遣された国司ら役人の手でまとめられているようなのです。

こうして出雲=神話の国とされてきましたが、神話はあくまで神話であり、考古学的な裏付けがない時代がずっと続いていました。

ところが1980年代半ば、ビッグな考古学的な発見が。出雲市で銅剣358本をはじめ銅矛、銅鐸などがこれまでにない数、発掘されました。荒神谷遺跡と呼ばれています。これにより「出雲は、古事記の神話の舞台となるほど先進的で有力な地域だった」ことが裏付けられました。文献(と言っていいのかな)と出土品がクロスしたわけです。

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上の写真が荒神谷遺跡で出土した銅剣。もちろん国宝です。展示してあるのは出雲大社の横にある古代出雲歴史博物館。見事でした。

荒神谷遺跡の発掘の後、もう少し山に入ったあたりにある加茂岩倉遺跡からも多くの銅鐸が出土。弥生時代において出雲が銅鐸(主に関西一帯から出土)、銅剣(主に九州一帯で出土)の両文化が交錯する重要な地域であることが重ねて印象づけられました。この遺跡の銅鐸も歴史博物館に並んでいました。でも銅鐸って不思議な形ですよね。今もって慣れません。
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さて博物館に行った翌日、荒神谷遺跡を見に行きました。前日夜はわざわざ近くの「道の駅湯の川」で車中泊。6時過ぎにはそこを出発し、7時前には公園化された遺跡を見学していました。それにしても誰もいない遺跡を歩き回るのは、なんとなく少しばかり怖かったです。

場所は出雲平野が尽きて、中国山地に差し掛かる微妙な場所。しかしこの場所になぜあれほどの多量の銅剣や銅鐸が埋められたのでしょうか。資料館もあったのですが、当然ながらこの時間なので入ることはできませんでした。


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もう一つ、出雲の弥生時代を特徴付けるのに「四隅突出型墳丘墓」と言う墳墓があります。下の写真は、荒神谷遺跡から車で15分ほどの西谷墳墓群史跡公園に復元されたものです。この墳墓は、箸墓古墳卑弥呼の墓と推測する向きもあり)などの前方後円墳がどんどん作られる古墳時代以前のものです。出雲を中心に山陰、山陽北部、北陸にも存在。ヤマト王権成立以前あるいは同時期に日本海沿岸に独自の文化圏があったことを示す象徴的な存在なのです。
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墳丘墓の横には出雲商業高校があり、野球部の生徒たちが早朝練習してました。1年生なのでしょうか、先輩たちに「おはようございます」を連発する声があたりに響いておりました。
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松江城を横目に見て(さすがにGW。あさ9時の段階で駐車場は満車でした)、中海の島々を抜けて、境港から島根半島へ。美保関灯台美保神社を訪ねました。上の写真は美保神社

長くなるのでこの辺りは別の回で。

宮本浩次のライブに行った

どうも。旅するおやじ旅生です。

昨日、熊本城ホールで開かれた宮本浩次のコンサートに行ってきました。

いやいや感動的でした。
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曲のラインナップは、ツアー名から分かる通り、アルバム「縦横無尽」の曲が中心(東京協奏曲はなし。桜井さんが許可してくれなかったのかな)。「宮本、独歩」からは夜明けの歌、ハレルヤほか。エレファントカシマシからは、悲しみの果て、今宵の月のように、など5曲。

2時間ちょっと、ほとんどMCなし、休憩少しだけ、という感じで、歌いまくりの宮本でした。

エレカシを聴き始めて5年余り。初の生宮本。5メートルほどの距離まで来てくれたけど、小柄ですねー。身長は旅生と同じ170センチどけど、何しろ細いから。あの体型で55歳というのは信じられん。動きにも声にも衰えがありません。

テレビで何度かライブを見ましたが、実際に生で見ると、宮本がホントに精魂尽き果てるまでパフォーマンスしてるのが、がっちり伝わり、感動します。

旅生もほとんど立ちっぱなしでした。コロナ対策で声援は送れないけど、会場全体が一体となって熱く盛り上がっているのが感じられ、旅生もコンサートが終わったころには、汗びっしょりでした。

 

しかし、なによりも驚いたこと。

観客の平均年齢の高さ。会場に着く前は「若い人に混じって、旅生は浮いてしまうのではないか」と真剣に心配していましたが、意外や意外、二十代、三十代の姿はほぼなく、四十代〜六十代がほとんど。七十代と思われる方々も。

先日59歳になった旅生が、ほぼ平均年齢くらいと思われました。

30年前だったら、舟木一夫のコンサートの客層ではないでしょうか。

いゃ〜、これは驚きでした。

旅生はこう推測しています。

昭和の女性歌手のカバーを集めたアルバム「ロマンス」のヒットで、高齢者ファンが急増したのではないか。もしかしたら宮本のソロコンサートではなく、エレカシのコンサートになると、もっと年齢層が低いのではないか。

気になるところです。