一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

吉野ヶ里遺跡で邪馬台国を考えた

どうも。旅するおやじ旅生です。

二十年ぶりに吉野ヶ里遺跡を見学しました。前回は小学生だった娘たちを連れていったのですが、今回は日帰り一人旅。娘たちもやがて30歳になろうとしています。

最初に来た時は高床式の望楼や竪穴式住居がいくつかある程度でした。「男はつらいよ」の舞台にもなったなぁ。満男と泉ちゃんがデートした場所。ちなみにマドンナは泉ちゃんの叔母役の檀ふみ。もともとが福岡出身の女優さんなので九州弁が上手でした。

ところでこの吉野ヶ里遺跡、今では立派な国営の公園となり、弥生集落がリアルに再現されています。越前朝倉氏の一乗谷と同じような徹底した完成度。弥生人体験コーナーなども設置されているのがお役所っぽいというか公立公園っぽくて面白い。

望楼に昇ると風が心地よく、遠く佐賀市久留米市の街並み、雲仙岳有明海などが見事に見渡せます。まだ行ってない人は是非ともお薦めです。実に清々しい気持ちになります。

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思うに日本家屋は弥生時代から昭和初期まで、基本的にはそう変わってないのかもしれません。竪穴式住居を上から見ると、白川郷や福島の大内宿と似た感じがします。壁があるかないかだけの違いのような。

資料館もあり、年表やパネル、レプリカなどで遺跡の全体像を解説。個人的には邪馬台国との関わりをどの程度強調しているか気になっていましたが、あくまで、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の様子と重なる環濠集落としての説明に留まり、「邪馬台国だった可能性あり」などと声高に叫ぶようなアピールはさすがにありませんでした。

ちなみに吉野ヶ里遺跡の学術的価値は公園HPは次のように記しています。「弥生時代における〝クニ〟の中心的な集落の全貌や弥生時代700年間の移り変わりを知ることができ、日本の古代の歴史を解き明かす上で極めて貴重な資料や情報が集まっています」「魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の時代を彷彿とさせるもので国の特別史跡にも指定されています」

邪馬台国であるとは強調していませんが、「その時代を彷彿とさせる」。うーん微妙です。
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上の写真は集落の幹部たちが巫女らから米の収穫日などを伝えられたりする、一番大切な祭事の場所。中には人形がたくさん並び、小さな子供が怯えそうな展示になってます。茅葺き独特の香りが満ちて、懐かしい気持ちになりました。
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邪馬台国といえば水行陸行の方角や日程が話題になります。そのあたり、吉野ケ里は位置的にどうなのでしょうか。

吉野ケ里発掘が話題になったころ、邪馬台国九州説が盛り上がりましたが、その後論争に決着がついたという話も聞かないので、最終的な決め手を欠いたということでしょうか。遺跡が公開された当時のニュース映像を見ると、松本清張が下唇をどーんと突き出して学芸員らの説明に耳を傾けている様子が映っていました。

 

上越市の公園。たぶん3年後には行くだろう

どうも、旅するおやじ旅生です。

NHKのBSで火野正平さんが全国各地を自転車でめぐる「こころ旅」、今週は新潟県を北上していました。その中で出てきたのが上越市の「たにはま公園」という場所。火野さんが指さしているのは直江津の街並みです。

8年ほど前、50歳の誕生日を迎える直前の3月末、熊本からFDA名古屋空港に行き、青春18切符を使って豊橋駒ヶ根(泊)ー松本ー長野(泊)ー上越ー富山(泊)ー名古屋と一周したことがあります。もちろん一人旅。

上越は初めて行った土地でした。春日山城を見た後、日本海の海岸を歩いて直江津駅へ。雪も少し降って、日本海らしい景色を堪能できました。静かな町でした。春日山城の麓の林泉寺上杉謙信の墓があり(意外と小さかったような‥)、天正六年と彫り込んであるのを見て、「個人が確定している戦国時代の墓って初めて見たのではないかな」と思ったのも記憶しています。宝物館もあり、住職さんが詳しく説明してくれました。

この4日間の旅、一般的に見れば地味なコースなのでしょうが、旅生から言わせると「我ながら実に見事なコース」でした。いろいろなことがすごく印象に残った旅でした。

ちなみに火野さんが訪ねた「たにはま公園」には行きませんでしたが、定年後の長旅ではまず間違いなくキャンピングカーで訪れるだろうな、とテレビを見ながら思ったところでした。キャンピングカーが届くまであと半年、定年まであと2年半。山あり谷ありの会社生活は続くのでしょうが、健康に留意しながら、「自由」になる日を待ちわびています。

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話はガラッと変わりますが、相変わらず古代史、神話についての本を読み漁っております。

読んでいて思ったこと。

戦国史以降の近世史、近現代史に比べ、根拠となるべき資料が極めて少ないため、推論がとても多いようです。まるでコロンボ古畑任三郎の話を聞いている感じ。

そのため他の時代の歴史本にくらべ、学者の名前がこれでもかというほど出てきます。邪馬台国論争あたりになると、考古学者、歴史学者言語学者などいろんな分野の研究者がそれぞれの論を展開。そのたびなるべくネットで研究者のこと調べていますが、何しろ新井白石あたりから邪馬台国論争は始まっています。300年以上も結論は続いているわけです。こりゃすごいな、と思わずにはいられません。

邪馬台国論争自体が歴史になっています。邪馬台国の歴史的価値をを知る=「邪馬台国論争の歴史を知る」ことにもなってしまいます。何か変な感じです。

ちなみに神話研究と古代史研究は別物なのでしょうが、どこか線引きが微妙で混沌としています。しかしそちらの方が読む側からすると一つの醍醐味となります。

例えば卑弥呼神功皇后応神天皇の母親)という話も出てきます。ただ神功皇后自体、実在の人物かどうかはっきりせず、半分神話の世界の人のようでもあり、読んでいて混乱します。でもその混乱がなんとも楽しいわけです。

手当たり次第に目についた本を読んでいます。最近は昭和40年代あたりに出た本を読む機会が多かったですね。手元の本棚にあったもので(笑)。もしかしたら邪馬台国論争を含む古代史研究が盛んな時期だったのかもしれません。ただその後、吉野ヶ里遺跡纏向遺跡で大きな発見があっているので、いろんな解釈が変わったことでしょう。その辺りは随時、追っかけていきたいと思います。

今読んでいるのは、中央公論社の「日本の歴史 神話から歴史へ」。井上光貞氏がまとめています。ネットで調べたらなんと長州閥である井上馨桂太郎の孫。私が高校生の頃に60代で亡くなった方のようです。幕末・明治はそう遠い過去ではないのですね。

この本で井上氏は邪馬台国九州説をとっていらっしゃいます。

福岡南部(筑後平野の南側)から熊本北部(熊本平野の北部)のエリアだったのではないかと書いています。最近はどちらかというと近畿説が強いので、「へぇ、井上先生はそうだったんだ」と意外な感じがしました。

話は細部に入ってしまいますが、井上氏は福岡南部と熊本北部の「一体感」を強調しています。

地元民として、これはうなづける話です。福岡南部には頻繁に訪ねる機会が多く、そのたびに感じるのは、言葉、景色、風俗、地域性などいろんな事柄が一緒であるということ。律令制以来、確かに別の地域に分けられていますが、地域を分ける高い山脈などもなく往来は極めて盛んです。大牟田市荒尾市の県境はただの細い道路一本です。このあたりの一体感をきちんと見定めているあたり、さすがと思いました。

何冊か古代史の本を読んだだけなので、あまり偉そうなことは言えませんが、井上先生がまとめられたこの一冊、とても説得力があり、分かりやすいと思います。

これまで戦国時代以降の歴史にばかり目を向けていましたが、新たな時代に踏み込んでいけて、視野が開けた感じがします。

次の一冊は「日本の神話を考える」(上田正昭著)。まだ少ししか読んでいませんが、なかなか面白そうです。

大和朝廷に反発した磐井の墓

どうも、旅するおやじ旅生です。

年末年始に高千穂や宮崎市周辺を旅してから、俄然、神話や古代史に興味がわきました。

最近読んでいるのが、40年ほど前に出版された「日本史探訪 古代王国の謎」。邪馬台国、近江王朝、出雲王国などが当時の考古学者や評論家らの対談という形で描かれています。ちなみに松本清張角川源義も論陣を張っています。ほぼ全員が明治、大正生まれ。

最後の章に出てくるのが磐井の乱です。

ちなみにWikipedia先生によると…。

磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。

 

日本史の教科書に磐井の乱が出てきたのはよく覚えていますが、どんな歴史的意味があったのか、いつ頃の出来事だったのか、ほとんど忘れていました。というかほとんど興味がありませんでした。

ただ古代史の知識がわずかながら増えるにつれ、「磐井ってすごくないか。地元九州勢としては知っておかねば」という思いが強まりました。で、この本の中で「磐井の墓=福岡県八女市の岩戸山古墳」と知り、早速、出向きました。

場所は八女市の北の端、国道3号線のすぐ横。これまで何度となく通り過ぎた場所でした。国道から見るとただの小さな丘にしか見えませんが、九州最大の前方後円墳なのです。

駐車場から2、3分歩くと四角い芝生広場。

実はここは「別区」と呼ばれるエリア。円墳部分に接する場所に位置しています。筑後国風土記に記された磐井の墓にはこの別区のことが記されて、状況が合致したことから、この古墳が磐井の墓とわかったそうです。

だれの墓なのか特定された古墳は全国でも珍しいとされています。

別区には、下の写真のような石人が昔から並んでいたとか。奴凧みたいな可愛らしさが漂いますが、どこか怖くもあります。おそらくは戦士を模したものでしょう。実物は大切に保存されており、これはそっくりに復元したもの。

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石人を別区の反対側から撮影しました。別区の説明板も撮りました。
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古墳は神社の境内地のようになっています。前方後円墳の上にも上がれるので、実際に上がりました。狭い石段を10メートルも上がれば頂上。社や碑がたち、常緑樹がうっそうとして、だいぶ蚊に刺されました。

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古墳の周囲は公園化されていて資料館もあるのですが、コロナの影響で5月末日まで休館。ざんねん。ぜひまた訪れたい。
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磐井は外交力があり、当時大和朝廷と対立していた新羅と通じていたとか。朝鮮半島に出兵しようとした大和朝廷軍を新羅の要請で北九州において阻止した、ということのようです。

磐井は肥後、肥前豊前、豊後の協力も受けて戦うも敗戦。しかし磐井の一族は全滅させられたわけではなく、その子孫はその後も八女市一帯を治めたようなのです。

それにしても驚かされるのは、当時の日本人の行動範囲の広さ。航海術や道路整備は、まだまだ原始的なレベルと思いがちですが、実際は違ったのかもしれません。

古代の日本の国力、旅生にはなかなか見えません。それだけに学びの喜びも大きい感じがします。
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熊本への帰り道、荒尾市あたりから見た有明海の夕暮れ。

この辺りは熊襲征伐に来た景行天皇が雲仙の山並みを見て「あの山塊は島なのか、それとも地続きなのか」と疑問を呈した地と伝えられています。

確かにこの辺り、絶景の地です。有明海一帯で一番ではないかと思います。長崎も佐賀も福岡も熊本もすべて見渡せるし。

キャンピングカーの購入決定

どうも、旅するおやじ旅生です。

とうとうやりました。

正式にキャンピングカーの購入予約を入れました。

車種はレクビィ「プラスLVプラス1」。家庭用エアコンを設置できるハイエースの標準タイプハイルーフということで、数ヶ月前から目をつけていた。一度は予約まで入れたが、その時は現物を見れなかったので、翌日取り消したことは一度書いた。

 

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 その後、毎日毎日、頭がボーッとなるくらいYouTubeを見て、どの車が自分にぴったりなのか探った。アカデミー賞をとった「ノマドランド」まで見に行った(関係ないが)。

クーラーをどうするかが一番の課題だった。「ポータブルクーラーではどうか」なども考えた。ただなかなか効果は薄そうである。

行き着いた結論。「夏場2〜3ヶ月だけのために年間通して重いクーラーと室外機を運ぶのはいかがなものか」「夏場は標高の高い場所、あるいは北国に行って、マックスファンで外気をガンガン取り込んではどうか」。「甘い!」と指摘を浴びそうだが、「所詮は道楽。行き過ぎは慎もう。あとは我慢だ」と自らを納得させた。

エアコンに関する一人論争は乗り切った。

その時点でアネックスの「WIZ」という、やはり標準タイプハイルーフに大きく傾いた。テレビ東京の「絶メシロード」というドラマで山本耕史が乗っていた車だ。シュッとしていていい。

ただどうしても一つ気になる。運転席から後部座席に「ウォークスルー」できないのだ。間に大きめのシンクなどがある。車中料理は多分しない旅生なのに。無理にまたぐのは大変そう。納車までかなり時間がかかるという点も気になったし、何より現物を見ていない。お店の人は「大阪まで行けば見れます」と教えてくれたが、さすがに‥。

同時期に候補に上がったのがOMCの「ナロー銀河」。ナローとは標準タイプ幅のハイエースのこと。二段ベッドが縦方向にあり、片側には迎え合わせの椅子と机。おまけに「クールスター」という車載用のエアコンも。最後部にはポータブルトイレをおける個室。何から何まで備わっている。ただ妻が言う。「あなたは粗忽なんだから、あちこちに体をぶつけ、怪我が絶えないよ」。確かに。おっしゃる通り。

その後、かなり強力な候補として浮かんだのがアネックスの「リコルソ」。長さは標準タイプと同じなのだが、幅が広い「ワイド」で、天井は「ハイルーフ」より低い「ミドル」。車高210センチで「立体駐車場にも入れる」のが売り。だがその利点ゆえ、天井にマックスファンを取り付けるのは「掟破り」となる。20センチ余り背が高くなるのだ。

もちろん高さを諦め、掟破りをすればいいだけの話だが、標準・ハイルーフに比べ収納の少なさが気になる。広くてゴージャス感はあるものの、「ノマド」的な長旅はイメージして作られていないのでは、という答えに行き着いた。

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そして迎えた5月15〜17日の「九州キャンピングカーショー」(熊本県益城町のグランメッセ)。待ちに待った。

「もう結論を出そう。キリがない」。初日から勇んで出掛けた。勇みすぎたのだろう、しばらく体が熱って、汗が止まらなかった。同行した妻が呆れていた。

ここで初めてレクビィ「プラスLVプラス1」の実物を見た。イメージしていたよりコンパクトで使いやすそう。数ヶ月前、ほぼ同内容の兄弟車を見て「自分にぴったり、いろんなものがちょうどいい」と目をつけた車だけのことがある。

4時間かけて腹一杯、主だったキャンピングカーを見て回った。YouTuberタックルさんのトークショーも見ずに。WIZはなかったが、プラスLVプラス1で「間違いない」と確信した。

その時である。妻が隣に置いてあった小さめのキャブコンを見て「この車、いいんじゃない?」と言い出した。キャブコンは全く考えてなかったので渋々見てみた。セキソーボディー「トム200」。見たら確かにいい。使いやすそうで外観も仰々しくない。感覚的にバンコンに近いキャブコン。二匹のトイプードルを溺愛する妻は「二人(二匹とは言わない)にとってもいいと思う」。なんじゃそりゃ、と思ったが、わからないではない。

とりあえず家に帰って駐車場の長さを改めて測ってみることに。このトム君は果たして置けるのか。車長ほぼ5メートル。

だめでした。ぎちぎち置けないこともないだろうが、トラブルを巻き起こしそう。

結果的に標準タイプのハイエースがやはり限界であることが判明。最後まで勝ち残ったのが「プラスLVプラス1」だった。選抜の覇者だ。

再度会場のグランメッセを訪ね、「以前予約を取り消していましたが、やはりこの車で」と担当店員と話を詰めた。「このおやじえらく慎重だな」と思われたことだろう。いいんだ、へん。ちなみに設置可能な家庭用エアコンは付けなかった。

以下はレクビィのカタログにある「プラスLVプラス1」のページ。1〜2人のノマド的な放浪旅にはぴったりだと思う。

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納車は1月。値段は書かない。高級外車なみです。興味がある人はネットで調べてください。考えれば、生まれて初めての車道楽である。

それにしても「キャンピング選び熱」はこれでひと段落だ。ちょっとせいせいした。

旅生の旅の目的は全国各地の街並み、自然の風景、歴史を頭に刻み込み、その成り立ちを自分なりに考えることだ。旅生版「街道をゆく」をまとめあげること。キャンピングカーはそのための「道具」である。改めて、めんどくせーな俺。

しかし同様のことを考えながらYouTubeやブログにまとめている高齢者の多さには、驚かされる。斬新な切り口にしないと埋もれてしまうこと間違いなしだ。すでにこのブログも埋もれている。

 

 


 

石垣どっしり梅雨に入る

どうも、旅するおやじ旅生です。

熊本城二の丸公園から天守閣を眺めたら、象徴的な風景に出会った。

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奥に写っている天守閣は熊本地震からの復旧が進み、クリアなツートンカラーだが、手前の宇土櫓はまだ工事が手付かずの状態なのでくすんだ色合いのままだ。

ご存知と思うが、熊本城は明治10年西南戦争でほとんどが火災に遭い、宇土櫓などほんの一部の建物だけが燃え残った。戦いをやりやすいよう官軍側が火を放ったと見るのが有力。城下町の半分以上も灰になった。

宇土櫓(国重要文化財)は400年以上前に建てられている。創建時の天守閣が残っている城が全国に12か所あるが、この宇土櫓も天守閣なみの大きさ(犬山城とか彦根城と同格か、ひょっとしたら宇土櫓が大きいかも)なので、仲間に入れてやってほしいといつも思う。

ちなみに明治以降、熊本城は軍の施設になった。軍の建物の一部は戦後、熊本大学の研究棟となり、やがて昭和40年代に設立された県立第二高校の校舎となり、同校移転後はさすがに老朽化が著しかったからか解体された。跡地には現在、県立美術館が建っている。

写真は美術館の前あたりから撮影した。芝生広場は二の丸公園という市民の憩いの場。 部活の高校生がランニングしたり、家族連れが弁当を広げたりしている。

安土桃山から江戸時代には重臣の邸宅や藩校時習館が立ち並び、明治~昭和は軍の建物が立ち並んでいたエリアだ。

撮影した日は梅雨入り直前の湿気の多い曇り日で、人が少なかった。

そこで俳句を一つ作った。

 

石垣も楠も重たげ梅雨に入る

 

最近立て続けに、二人の俳人が「季語から句を作るばかりではなく、自分の主張や思いに季語を組み込む作り方もある」と語っている文章を読んだ。旅生はなるべくそうしようと考えるタイプだったので、うれしかった、というか、安心した。

ただ上の句は「梅雨」という季語主導の作品。

一人の俳人は「菫ほどな小さき人に生まれたし」という夏目漱石の句を、主張重視作句の代表例としてあげていた。確かに。ただこの主張重視の作り方、下手すると臭い句になりがちなんだよね。擬人化の表現と同じくらい難しい。おそらくは主張の強さ加減が、言い換えれば表現のうまさが大事なんだろうな。

そのあたりがセンスなのでしょう。

興味深いぞ、細川家と松井家

どうも、旅するおやじ旅生です。

以前仕事の都合で八代市に住んでいたことはこれまでも何回か書いた。

その八代市には市立博物館があり、意欲的な企画展を展開している。その博物館の学芸員さんが「家老の忠義 大名細川家存続の秘訣」という本を出した。地元の新聞に紹介してあったので、歴史好きの旅生も早速購入した。

タイトルに名前は出てこないが、幕末まで八代城を預かった細川家筆頭家老の松井家始祖、松井康之とその息子興長を記した本である。

細川家と松井家のつながりについて簡単に説明したい。この本からの情報だけではなく、旅生がこれまで聞き集めた知識を総動員した説明。念のため。

松井康之はもともと足利幕府の幕臣。同じく足利幕臣だった細川藤孝(のちの幽斎。肥後細川家の始祖)は同僚だったことになる。

細川藤孝明智光秀らと足利義昭を担ぎ出し、やがては織田信長の力を借り上洛(このあたり、昨年の大河ドラマに詳しい)。数年後、信長の手で室町幕府は終焉を迎えるが、政治感覚に優れた藤孝は信長の配下に。その頃、松井康之は細川家の家臣となる。

旅生の個人的な感想だが、このあたりの細川家の成り立ち、ポッと出の戦国大名家と違い、細川家が武家儀礼を司る高家に近い存在だったことを感じさせる。

松井康之はその後、細川家を支える武将として名をなす。朝鮮出兵での活躍を認めた秀吉は「石見国の西半分」を与えて大名に取り立てようとするも、康之は「細川家に忠義を貫く」として拒否。このあたりの話は康之の真骨頂として後々語り継がれる。

話は当然、徳川家康にも伝わる。感動した家康は山城国に小さいながらも松井家の知行地を認め、康之は細川家家臣でありながら徳川家幕臣になった。幕末まで将軍の代替わりなどの際は江戸城に登城するという特殊な細川家家臣だったのだ。

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上の家系図、この本に記してあったものを撮影させていただきました。

それにしても戦国期から江戸初期までの細川家、大河ドラマにしたら結構面白いんではないだろうか。特にガラシャと結婚し、関ヶ原で活躍した2代目の忠興は舞台回しの材料が豊富。「戦国一の短気な男」と評されるほどの気性の荒さだったらしい。死の直前まで隠居の身でありながら、息子や家臣団を困らせるほどやりたい放題だ。

実は今回、この本を読んで一番興味を引いたのが、この忠興周辺の話だった(執筆者の学芸員さん、松井家から話がずれてすいません)。

実は忠興が当主の頃、3人の身内が細川家を去っている。

まずは忠興とガラシャの長男、幸隆。妻は加賀前田家の娘だった。

秀吉の死後一時期、忠興が前田家と組んで徳川家に反旗を翻そうとしているという噂がたった。忠興はその釈明に大変な苦労を強いられた。それがあってか忠興は幸隆に離縁を勧めたようだが、幸隆がこれを拒否。忠興の怒りを買い、廃嫡されたらしい。別の本によると、大坂の細川屋敷でガラシャが自害した際、幸隆の嫁は自害せずに屋敷から逃げた出したことも悪い方向に影響した、とあった。

2人目は忠興の弟興元。丹後時代は細川家臣団のまとめ役として活躍したが、豊前に移封後、忠興から与えられた石高に納得できず細川家を去った。

3人目は忠興の次男興秋。長男幸隆が廃嫡されたので当然興秋が跡を継ぐところだが、前田家の一件後、人質として徳川家に預けられた三男忠利が家康・秀忠にひどく気に入られたため、忠興は忠利を後継としたのだ。で、興秋が代わりに江戸に人質として送られたが、プライドが許さない興秋は京都で剃髪して姿をくらました。

何しろ気性の激しい忠興に、周辺は「やってられない」という思いが募ったのかもしれない。何しろまだ戦国の荒々しい気風が覆っていた時代である。

面白いことに3人とも、京都で風雅な生活をしていた忠興の父幽斎を頼って世話になっていたらしい。いいじいちゃんだったんだろうな。

忠興には血腥さを感じるが、幽斎のエピソードはいつもどこか優雅だ。

ちなみにWikipediaによるとその後、幸隆は許され細川内膳家として血脈は続く。時事放談細川隆元はこの家の人。興元は常陸谷田部細川家の初代当主となる。

ただ興秋は大坂の陣に出陣し、敗走して自害したとされる。

 

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上の写真が細川藤孝(幽斎)。本の一部を写させてもらいました。

読みやすくて、面白い学術書でした。

夏近し 阿蘇は瑞々しい景色となる

どうも、旅するおやじ旅生です。

久しぶりの記事。1ヶ月以上、書いていなかった。

別に理由があったわけではない。一つあるとすれば、仕事以外の時間はキャンピングカーのことばかり考えて、ブログに気持ちが向いていなかったということぐらいか。

こうなると、ほぼ恋をしているのと変わらない。キャンピングカーに恋をしているわけだ。いや違う、キャンピングカー選びに恋をしている。おかげでキャンピングカーのこと、すっかり詳しくなってしまった。

ただ首都圏や名古屋、大阪と違ってキャンピングカーを売っている店は限られている。だからYouTubeが情報源。いくつもチャンネル登録して執拗に執拗に情報収集している。同じ回を何回も見て、セリフ回しまで覚えてしまうほどだ。もう病気。

 

ちょっと気分を変えるため、自転車で阿蘇を回った。

熊本地震から5年が経ち、被害が酷かった阿蘇の一部もかなり復興。この時とばかり国土交通省が道路整備を進め、阿蘇への道路事情は地震の前より便利になってしまった。いやいやいいことですが。

今日は外輪山をトンネルで潜ってすぐのインターで自動車道を降り、山裾にある小さな公園の駐車場に車を置き、積み込んでいた自転車を降ろして出発。

新緑が瑞々しい。やはり阿蘇は春から初夏が一番いい。

駐車場のすぐ近くに、細川家の参勤交代で利用された茶屋跡。今も庭園が残り、当時から茶屋を管理してきた14代目の方が住んでいらっしゃる。

清冽な水が流れ、ツツジが咲き、少し色あせたヤブツバキが残り、ほんとに心が洗われる。

 

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さらに進んだら産神社という小さな社があった。
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この時期の阿蘇は実に色鮮やかである。

竹の秋という季語があるが、まさに今の時期。たけのこが生長するので栄養を取られ、竹の葉が枯れるそうだ。ちょうど6年前、飼っていた老犬(ゴールデンレトリバー)が死んでしまい、ペット霊園へ行く途中の道路が竹の落ち葉で彩られていたのを覚えている。

阿蘇の竹林も落ち葉が目立った。その向こうにはツツジ
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そして阿蘇といえばこいのぼり。

風が強かったのでバタバタと賑やかな音をたてていた。
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また阿蘇といえば湧水。阿蘇五岳の一つ根子岳を背に、役犬原の湧水群が綺麗だ。
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何よりも美しいと感じさせるのが、麦畑。風に吹かれてサワサワと揺れる。
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九州とはいえ標高が高いので落葉広葉樹が多い。特に欅の巨木が多いのが阿蘇の特徴。
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3時間をかけ阿蘇谷(カルデラの北側の盆地。標高400〜500メートル)をぐるっと回った。

行きも帰りも向かい風で、結構きつうございました。