一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

NHKの72時間 聖地巡礼した初山別のコンビニがトップ

旅するおやじ旅吉です。

年末恒例のNHKドキュメント72時間」の年間ベストテンを見た。

結果を紹介しておこう。

 

①冬の北海道 村のコンビニで

②全国うどん自販機の旅 群馬編

③大阪 昭和から続くアパートで

④北海道「礼文島」最果てのユースホステル

⑤大病院の屋上庭園で

⑥福岡・高速バスターミナル 年の瀬を走る

⑦さらば、呑んべ横丁

⑧岡山 24時間営業のドライブイン

フジロック 待ち望んだ夏の日に

⑩島根・黄泉比良坂 あの世との境界で

 

なかなかのラインアップだ。実は旅吉も11月頃、ネットで投票した。3本を推薦可能だったので、①のコンビニと④の礼文島、それにベストテンに入らなかったけど、「福岡 ボートレース場前の酒場にて」に投票した。3本のうち2本がベストテン入りしたのだから、なかなかの好成績。

特にうれしかったのが、初夏の北海道の旅で「聖地巡礼」した初山別村のコンビニが、1位に輝いたこと。下の記事に少しだけ書いていますので、読んでみてください。

訪問した際、店長さんに「72時間見ましたよ」と言おうか迷ったが、向こうも返事に困るのではないかと思い、やめた。ただ今日の番組で出た店長さんのコメントによると「放映後、北海道外からのお客さんも増えました。遠くは千葉からも」ということらしい。旅吉なんて熊本からだよ。千葉くらいじゃないよ。やはりあの時、店長さんに話しかけておくべきだった。

noaema1963.hatenablog.com

まさか一位になるとは思っていなかったので(ちなみに一位は礼文島だと予想していた)、なぜだかわがことのようにうれしかった。家族に「このコンビニ訪ねたんだよ」と自慢するも特に反応なし。

それにしても初山別付近、また行ってみたい。

 

北海道からの帰り道、⑧の岡山のドライブイン前を通過したが、なんとなく遠慮して別の店(ラーメン屋。全然おいしくなかった)に入ってしまった。なにを遠慮する必要があったのか自分でも理解できない。

疲れ果てたぜ、わがチャレンジ

旅するおやじ旅吉です。

ほぼ半月に一回の投稿になってしまった。別に病気をしたわけではない。

第二の人生をいかに安定した彩りのあるものにしようかと、いくつかチャレンジをしたり、考えを整理したりしていたわけだ。

思えば、退職してから9か月あまりが過ぎた。昨日、近くの里山を歩いていて山茶花を見かけた。そこでふと気づいた。「そういえば退職して間もなく山を歩いた時も山茶花を見たな(山茶花は開花時期が意外と長い)。ということはやがて季節が一回りするということか」。

退職後、何度か「自由人になってからの暮らしぶり」を紹介したが、師走に入ったのを機に再度振り返って、気づいたことや感想を書いてみたい。

最初の数か月、周囲から「退職したのだから資格でも取ってみたら」とか「〇〇みたいな仕事もいいぞ」みたいな話がよく出た。当初はあまり気にしていなかった。ただ旅吉としては、しばらく好きなように暮らした後(それがこの冬までなのか、来春までなのか未定。ただそう遠い先ではない)は、また働くつもりのだ。テレビや新聞では国のトップたちが「働き手不足のご時世、シニアの手が必要になっている」みたいなこと言っている。そりゃそうだろう、頑張ってみるつもりだぜ、みたいな気でいた。

で、まずはハローワークのネット検索でどんな仕事があるか探してみた。居住地の熊本市の仕事を探してみる。ざざーっと出てくる。年齢不問の仕事もあるのはある。しかし、看護事務、看護師、養護施設、トラック運送などいずれも資格が必要な仕事がほとんどなのだ。「専門資格も専門性もないまま退職した60歳」を必要とする仕事は、ほぼない。

ここ数か月ずーっと見てきて感じたことがある。「いずれの求人も40代くらいまでの女性を採用したがっているな」ということ。一度、ハローワークに行って実情を聞いてみたら、やはりそれに近いことを言われた。ちゃんと通りのいい職場で働いていた人ほど、退職後の就職活動は苦労するみたい。そりゃそうだろう。

国のお偉さんが「これからはシニアに頑張ってほしい」と言っている割には、まだまだ受け入れ先は充実していない感じがしたが、いかがなものだろうか。おそらくあと5年後、10年後は状況が変わっているのだろうが。

「セカンドキャリアのために資格を」みたいな売り込みもよく見かける。

しかしこれは無理があると思う。例えば、行政書士とか司法書士、あるいは頑張って税理士の資格に挑戦したとする。50代後半で勉強を始めても、合格するの早くて60代前半、もしかすると70代になるかもしれない。で、開業。でも別の分野で働いていた人には人脈がないはずだから、だれも仕事の依頼には来ないだろう。その人が以前、司法書士事務所や税理士事務所で働いていたとすれば別だが。少しは仕事を分けてくれるかもしれない。

きょうネットで見た記事では、資格合格した高齢者に「顧客をつかむための講座」を準備している学校もあるとか。絶対無理でしょ、そんなことやってても。記事にもあったけど「資格の泥沼」。ようやくつかんだ資格をより有効にするため、今度は違う資格に挑戦しようとする人もいるらしい。稼ぐためではなくて趣味としか思えない。

実はこの9か月の間に実験的に挑戦したことがある。クラウドソーシングというやつ。仕事を頼みたい人と仕事をしたい人をネットで結びつけるマッチングアプリみたいな構造である。YouTubeホリエモンが「アルバイトで小銭稼ぎたいんだったら、あんなのが一番、AIとか専用ソフトを駆使してちょろちょろっとできます」みたいなことを言っていた。

で、とあるサイトに登録してやってみた。うまく行けばノートパソコンを持って全国各地を巡りながら、先々で空いた時間に車の中で仕事をする。そしたらガソリン代とか稼げるし、これこそノマドな暮らしだ。そんな期待が膨らむ。

サイト上でやりとりされる仕事の種類は多岐にわたる。旅吉の場合、読者は少ないとは言え、一応ブログを書いているので「ライティング」で検索してみた。

ところが出てくるのは、ほとんどがYouTubeのシナリオ書き。「おいおい、YouTubeってユーチューバー一人で作業を完結させてるんじゃなかったの?」とまず驚く。5000~6000文字書いて2000円~というレベル。どれもそれほど条件は変わらない。

このブログでさえ、好き勝手にここまで書いて1700文字。それから考えると、労力と報酬が乖離しすぎてないか、とまた驚く。

それでも挑戦してみた。仕事にたどり着くまでの高い競争率の中、どうにか3件ほど請け負ってみた。結果、疲れ果てました。「頑張れば道は開ける」と自らを鼓舞しながらだったが、そんなのが通用する時代ではない。精神力よりデジタルの知識が大事なのだ。これ以上詳しくは書かないが、60歳のおっさんには不似合いな仕事だということは分かりました。

相当な時間と労力を使った。しかし報酬は計1万円にも届かず。おそらくは20~40代くらいの人が仕事を請け負っているのだろうけど、まさか本業ではないよね。あれでは暮らしていけないはずだ。でも副業とするにはあまりに負担が重い。車中泊をしながら仕事を請け負うなんて、とんでもない話だということが分かった。

そんなことをやっていたので、最近ブログの更新をしてなかったわけだ。

第二の人生を豊かに充実させるのは難しい。

だが粘り強く次の「何か」を探していきたい。

 

 

 

壱岐に日帰りサイクリング

旅するおやじ旅吉です。久しぶりです。

長崎県の離島・壱岐を日帰りサイクリングしてきた。

といっても、愛車のハイエースに自転車を載せて、前日に熊本から佐賀県唐津に入り、虹ノ松原海岸で車中泊。翌朝一番のフェリーで唐津東港から壱岐の印通寺港へ渡り、最終便でまた唐津に帰ったというルート。その日の夜は唐津に近い鷹島の道の駅で車中泊したわけさ。

壱岐には泊まらなかったので、まぁ日帰りと表現してもいいかな、と。

ちなみに、車は唐津の港に駐車し、自転車だけフェリーに乗せて渡った。何しろ燃料代の高騰からか車を乗せるとフェリー料金が馬鹿高い。それでも往復6000円以上かかった。

あとで気づいたけど、壱岐では電動アシスト自転車をレンタルしているので、それを使う手もあった。ただある程度の距離乗ったら電池が切れて大変なんだよね。

 

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8時半過ぎに唐津を出港。この日は軽い冬型の気圧配置で風が強く、割と船が揺れ、軽く酔った。
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壱岐の港にあった案内板。30年ぶりの訪問だ。この段階では、どこまで走れるかまったく予想できなかった。とりあえず印通寺港から北へ向かい、原の辻遺跡に行くことに。

対馬に比べると平べったい島なので(邪馬台国が出てくる魏志倭人伝にもそれっぽいことが書いてある)、楽に自転車で進めるかと思ったけど、標高差50~100メートルのアップダウンが続き、それなりに大変だった。

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原の辻遺跡は、魏志倭人伝に記された一大国の頃の王都跡。国特別史跡弥生時代の遺跡で特別史跡になっているのは、ほかに静岡の登呂遺跡と佐賀の吉野ケ里遺跡だけらしい。
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すぐ近くの丘の上には一支国博物館。自転車で急坂を登るのはかなり苦労を強いられた。でも今風の充実した展示でした。
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窓の向こうには原の辻遺跡。ちなみにこの平野は長崎県で二番目に広い平野だとか。調べたら一位は諫早平野長崎県がいかに平野が少なく、コメ作りで苦労してきたかを痛感した。もちろん港や水産業には恵まれたけどね。

その点、わがふるさと熊本なんてコメ生産には相当恵まれている。近世以降の地域の発展は温暖な気候、平野の広さ、干拓地の拡大が相当影響しているみたい。何しろ江戸時代は実質「コメ本位制度」みたいなものだから。
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博物館の北東には内海湾(うちめわん)が広がる。王都への入り口にあたり、古代から近代にかけ、大陸との行き来の際の重要な船溜まりになったらしい。
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湾の中には干潮時のみ渡れる小島神社。
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本殿がある丘の上からのぞむ内海湾。
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30年前の壱岐訪問で唯一記憶しているのが「はらほげ地蔵」。改めて思い起こすと、ほかの観光名所はほとんど覚えていなかった。俺としたことが。
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そこから自転車を5分ほどこぐと絶景の地に着いた。左京鼻。北東からの日本海の荒波に洗われ、九州の海岸とは思えない荒々しさである。2時間ドラマの舞台に使えそう。
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崖の上から見下ろすと、高所恐怖症の旅吉は「くらくらっ」となる。しかしここで気を失いでもしたら、下手すると十数メートル下に転落の可能性さえある。いかんいかん。
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福岡からの高速船がつく芦辺港まで行ってみる。遠くからもイオンの赤い建物が見えたので、「壱岐にもイオンがあるんだ。やった(なぜだか旅吉はイオン大好き)。もしかしたらスタバもあるかも」と元気を取り戻す。
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左側に写っていますよね。ところがこのイオン、近くに来てみると、田舎によくある大きさのスーパーマーケットでした。「こんな小さなイオンがあるんだ」と逆に印象に残った。

写真の真ん中あたりに大きな船があるけど、おそらくあれはフェリーの廃船じゃないかな。間違ってたらすいません。この時点で午後2時過ぎ。結構疲れが出てて確認を怠った。
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アップダウンの続く国道を南下し、出発地点の印通寺港へ。あまりに頑張って自転車をこいだもので、17時半出発なのに16時前に港についた。一時間あまり堤防でぼーっとしてた。でも次第に黄金色に染まる港の景色がなんともよくて、結構思い出に残る待ち時間になった。
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ちなみに唐津までの往復はこんな感じで自転車を運んだ。写真ではわかりにくいが、自転車はサイドミラーの幅にちゃんと収まっているので、警察から注意されることはなかった。ただ異様に目立っていたことは間違いないだろう。なんだか大刀を背負った忍者みたい。

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写真映えするシンガポール

旅吉です。

今回はシンガポールを紹介します。

まずはマリーナ・ベイ・サンズ。いまやシンガポールで一番有名な建物と言えるかも。

本物を目の前にするまでは気づかなかったけど、三つのビルを結んでいるブリッジは「船」をイメージしてたんだ。そうだったんだ。

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ナショナルギャラリーの屋上近くから望む高層ビル街。ちょうど昼時にビル街を歩いたら、いろんな人種のいかにも優秀そうなビジネスマンがランチタイムを楽しんでいた。相当な年収を稼いでいるんだろうなと考えてしまう。
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ナショナルギャラリーの屋上庭園。100年ほど前のコロニアル式建築をリノベして使っていた。歴史好き、美術好きはぜひとも訪問を。

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近くにはほかにも昔の建物を利用した美術館、博物館がたくさん。地元の小学生が社会科見学に来ていた。みな賢そう。
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シンガポール川沿いに続く、ボートキーというエリア。おしゃれな飲食店が並ぶ、シンガポールらしい町並み。
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マリーナ・ベイ・サンズの裏手に広がるガーデンズ・バイ・ザ・ベイ。暑い中、無理して昼間訪ねずに、夕暮れから夜にかけていくのが正解。ライトアップされ、ディズニーランドっぽい音と光のショーが展開される。
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足元から見るマリーナ・ベイ・サンズ。やはり巨大建造物は度肝を抜いてくれる。
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マレーシア同様、シンガポールも他民族国家。最も強烈だったのはインド人街。色彩感覚がすごい。良くも悪くも。くらっとする。現代美術っぽいとも言えそう。でもインド人の道行く人をじーっと見つめる感じ、ちょっと苦手です。中国人やマレー人より心が読みにくい。

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アラブ人街はおしゃれだった。白人の方々が好みそうな町並み。
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そしてチャイナタウン。夕方訪ねたのでホーカーセンター(再開発に伴い屋台街を建物内に収容した格好。主に複合ビルや雑居ビルの1~2階あたりに展開している)の店も軒並み閉店準備に余念がなかった。
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シンガポールのチャイナタウンは家々がほぼ3階建て。マレーシアは2階建てだった。
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シンガポールで唯一の世界遺産「ボタニック・ガーデン」。熱帯の植物が美しく、カフェ(というかレストラン)もおしゃれだった。白人女性がヨガをしている場面にやたらと出くわした。欧米人ってアジアにちょっとずれた幻想を抱いているんだろうな、とつくづく思う。
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オーチャード通りの高島屋には紀伊國屋書店が入居していた。驚くことに日本人向けのコーナーが広々とあり、下の写真のように文庫本や雑誌が当たり前に販売されていた。まぁ考えてみればシンガポール在住の日本人は3万人あまり。日本でいえば地方の小都市の人口。こんな本屋があって当然だろう。ただ値段は本来の定価の2倍だった。ちなみにクアラルンプールでは伊勢丹の中に紀伊國屋書店があった。
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マレーシアとシンガポールの違い。

シンガポールは東京をも大きく上回る近代的で豊かな街。よく言われるように清潔ではあるが、下町にいくと結構あちこちにゴミが散らかっていた。その点は日本が上かな。物価はかなり高い。円安の影響もあり、旅行にはそれなりの覚悟が必要。

一方、マレーシアはずっと田舎だった。クアラルンプールの発展ぶりは見事だったが、国全体で見ればまだ発展途上国に入るのかも。下町のあちこちに浮浪者や物乞いが上半身裸でかったるそうに寝そべっていた。さすがに怖い。物価は日本より安かった。

ブログに写真を載せてみてあらためて気づいたが、シンガポールの方が写真映えするなぁ。ただ「近々また行くならどっち」と聞かれたら、マレーシアと答えるだろう。未完成な感じがいいのかもしれない。

マレーシアに行ってきた

旅吉です。

35年ぶりにマレーシアに行ってきた。素朴な雰囲気だったクアラルンプールもいまや高層ビルが立ち並ぶ大都市になっていた。

 

まずは名物のツインタワービル。やはり夜がおすすめ。

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でもチャイナタウンやインド人街のあたりはまだ昔ながらのたたずまい。大英帝国の植民地時代に建てられた政庁や、ほぼ同時期(19世紀末~20世紀初頭)に建てられたモスクや民家がたくさん残っている。
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マレーシアは中国人、マレー人、インド人の順番で人口が多い多民族国家。なので仏教寺院、モスク、ヒンドゥー教寺院があちこちにある。
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下の写真はクアラルンプールの郊外にあるバトゥ洞窟。ヒンドゥー教の聖地だ。
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下の写真は、クアラルンプールから100キロあまり南にある港町マラッカ。日本の戦国時代から江戸時代にかけ、ポルトガルやオランダの貿易の拠点となった。日本にキリスト教を伝えたザビエルの墓が一時期あった教会跡や、古い中国風の町並みが残る世界遺産の町。週末だったこともあり、とんでもない数の観光客であふれかえっていた。
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イカのジュース。確か300円くらいだった。おいしかった。ちなみに目の前にはハードロックカフェがあった。そこで夕食を食べたけど、日本で焼き肉を腹いっぱい食べたくらいの値段だった。
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クアラルンプール国際空港の近くにある人気のピンクモスク。首相官邸や国の役所が集まるプトラジャヤという地域に30年ほど前に建てられた。
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次回はシンガポールを紹介します。

北広島の楽しい記憶

旅吉です。

一人車中泊を繰り返していると、意外と会話する機会が減ってしまう。コミュ力が高い社交的な人ならそんなことがないんだろうけど。。。

話しかけられるケースも少ない。もしかしたら「安易に話かけてこないで」というオーラが出ているのか。そんなつもりはないが。

なので、説明好きの資料館のガイドさんなどがいたら、旅吉も「この時とばかり」会話を楽しむ。

先日の中国地方旅で訪ねた広島県北広島町でも会話が盛り上がり、あとで来られた観光客も一緒に2時間近く過ごすことになった。

場所は古保利薬師という小さな廃寺跡。国重要文化財の仏像群が地元の人々の手で大事に守られている。近くの道の駅で存在を知り訪ねた。

まだ天平時代の名残がある平安初期の仏像などレベルの高い仏さんがずらり。京都に近づくとやはり違うなと感心する。

訪ねる人はほとんどいないらしいが、地元保存会のおじさんが一生懸命説明してくれた。仏像好きの旅吉にとって至福のひと時だ。
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説明を聞いている途中、地元の老夫婦が来られた。ガイドさんも顔見知りで、親しげに挨拶されている。

説明が終わると、老夫婦の男性が「熊本から来たんですか? キャンピングカーが下にあったけど」と聞いてこられる。「今から50年ほど前、わしも熊本に住んでたんよ」。

旅吉も昔の話は大好き。「どのあたりに住んでたんですか」と聞くと、昔の記憶を引っ張り出しながら「昔の飛行場(今は日赤)のすぐ近く。見渡す限り農地で芝の栽培が盛んだった」「郵便物は水前寺公園近くの郵便局まで取りに行かにゃぁならんだった」など懐かしそうに話される。

旅吉が小学校低学年頃の話。その頃のイメージを思い出しながら話していると、タイムスリップしたようになる。

「飛行場に曲がる所にカドウチできる酒屋があったが、もうなかろ?」と聞かれるのでGoogleマップで調べるとコンビニになっていた。

当時賑わった街中のキャバレーの名前をどんどん上げられる。さすがにいずれも存在しない。そういや、うちの親父もよくキャバレーに行ってたなぁ。遠い目になる。

こちらまで懐かしい気分になった。

その男性、脱サラして故郷の北広島で刀の研師になられ、今も続けられているそうだ。伝統の技を持ってらっしゃる方は羨ましい。

「今度は家族も連れて来てください」という声を背に受けながら古保利薬師を後にした。

いい思い出になりました。
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重厚でした吉備津神社

旅吉です。

中国地方車中泊旅の続き。

初めて岡山県の吉備路を訪ねた。古代史に興味を持つまで吉備路の魅力が分からずにいた。

でも今だったら分かる。

弥生時代から飛鳥時代にかけ、出雲、吉備、そして九州北部は先進地だった。高い文化を持った渡来人が入り込みやすい場所。ヤマト王権と競い合う力を持つ王たちがこの地にいた。

彼らは最終的に「国譲り神話」が示す通り、ヤマト王権の軍門に下ったのだろうが、出雲大社吉備津神社宗像大社宇佐神宮などのような、全国に名が知られる格式高い神社にその名残を見ることができる。

権力者におもねない史実に忠実な文献があれば、そのあたりのパワーゲームがよくわかるのだろうが、神話などにまぶされると何が何だか分からなくなってしまう。

というわけで、岡山市北区にある吉備津神社へ。備前国備中国の境目近く。境目というバス停もあった。わかりやすい。

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wiki先生の知識をまとめると以下の通り。

古来神体山とされる中山の麓に鎮座。この地を治めたとされる大吉備津彦命主祭神

本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国備後国の一宮(備前吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。

足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定されている。

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すごい。かなり重厚で格式の高さが滲み出ている。神社特有の清々しさより、重々しさが前面に出ている。京都でよく見る大規模な仏教寺院を思わせる。
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すぐ近くの吉備津彦神社も訪問。上の説明にある通り、分家的な存在なので、規模が小さめでした。
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そして総社市の造山古墳へ。墳丘長350mの全国で4番目に大きい前方後円墳。5世紀前半の築造らしいので、倭の五王の時代と重なる。まさに巨大古墳の時代。
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上の写真は後円部。戦国時代は砦として使われた形跡あり、とか。この利用のされ方、結構よく聞く。当然、オリジナルの形は失われているようだ。
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前方部から後円部を見る。立ち入りが自由な最大の古墳。嬉しい! まだ本格的な調査はされていないようだが、今後、葺石や復元した埴輪を並べるなどするらしい。
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前方部の上には小さな社。その前には石棺が。熊本の有明海沿岸から運ばれてきた阿蘇凝灰岩製のわずかにピンク色をした石棺だ。掘り出されてそのまま置かれている。

確かこの石棺、継体天皇の今城塚古墳(大阪府)でも使われていたと聞く。当時の肥後の豪族である火の君が運んだという。大変だったたろうなぁ。
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今回は、9月中旬の車中泊がどんなものか確認する旅でもあった。結果だけ書いておくと、大変残暑が厳しい中ではあったが、少し標高高めなら(200m以上)問題なし。山側はこの時期、20℃くらいまで下がるんだよね。

とか言いながら宍道湖畔の道の駅(ほぼゼロm)でもグースカ寝てたが‥。