どうも。旅するおやじ旅吉です。
但馬の国(兵庫県北部)から峠を越すと丹後の国(京都府北部地域)に入ります。城崎温泉から東へと進むこの峠道は、標高こそ300メートル程度でしたが、延々と狭く曲がりくねった山道が続き、うんざりしてしまいました。
やがて目の前に明るく輝く久美浜湾が。丹後半島の付け根に位置しており、湾の南岸にはささやかながら久美浜の町が広がっています。
実はこの丹後地方、熊本とは縁があります。
加藤家改易後に肥後54万石を治めた細川家は、初代藤孝(のちの幽斎)が織田信長、息子の忠興が豊臣秀吉の家臣としてこの丹後地方を預かり、関ヶ原の戦いまで12万石を統治していました。
松井家ゆかりの地はどこに
藤孝は舞鶴、忠興は宮津、筆頭家老の松井家は久美浜にそれぞれ城を持っていました。
これまでブログには何度か書いてきましたが、この松井家は肥後統治時代、旅吉が以前仕事で赴任してい八代地域を治めていました。「薩摩への備え」という名目。このあたり詳しく知りたい人は「家老の忠義 大名細川家存続の秘訣」(林千寿著)が大変参考になります。ブログにも書いていますので、読んでみてください。
その松井家が最初に2万石の「城持ち」になったこの久美浜。以前から来てみたいと思っていました。
ただ今回の旅行の出発時点では久美浜に来ることは念頭になかったので特に予備知識がないまま到着。前出の本で「松井康之は久美浜を治め、丹後の水軍を率いて鳥取城攻めで活躍した」と読んだことだけはうっすら覚えていました。
丹後と言えば若狭湾にひらけた地のイメージが強いのですが、この久美浜は但馬との国境にあり、西方への進軍がしやすい場所なのです。
というわけで京都丹後鉄道の久美浜駅にある観光案内所へ。下の写真が久美浜駅。
しかし観光パンフを見ても松井の文字は全く見えません。
地元でもほとんど知られてないことを覚悟した上で、案内所の女性に「戦国時代に久美浜を治めた松井家にゆかりの場所って、どこかありますか」と質問したところ、案の定、困惑した表情に。
でもこの職員さんは親切で、諦めることなく関係者の方々から情報を集め、「たぶんこの方ならご存知だろう」という一人のガイドさんを探し出して電話連絡。旅吉は直接、その男性ガイドさんから電話でゆかりの地を丁寧に教えていただきました。
そのガイドさんの話により、松井家の居城だった久美浜城(松倉城)、松井康之が父正之の墓を立てた菩提寺の宗雲寺などがあることが判明。城址は登るのが大変そうなので諦め、宗雲寺に行ってみました。
久美浜の町並みから1キロほどの山間にある静かな寺でした。本堂の軒下には細川家と松井家の家紋がはためいていました。康之の父正之と母法壽の墓は、本堂裏の細い山道を上がった場所にありました。
墓石は江戸時代半ばに建て直されたものらしいです。本当は住職さんにいろいろ話を聞きたかったのですが、一観光客をいちいち相手にされるのは迷惑に当たるのではないかと考え、やめておきました。
想像以上の景観の地
久美浜湾は砂州(小天橋という名で呼ばれています。雅ですね)で日本海と区切られています。一帯は旅吉の想像以上に風光明媚な場所で、天橋立ほどではありませんが、観光客もかなり目立ちました。
旅から帰った後、前出の「家老の忠義」をちょっと読み返してみました。
松井康之が久美浜城の城主になったのは本能寺の変の後で、「当時の城郭や城下町の様子を伝える史料や遺跡は確認できないものの、久美浜湾を活用した城下町づくりが行われたものと考えられる」「城持ちとなった康之は、従来の家臣に加え、多くの牢人を召抱えたというので、久美浜城下はそれなりの規模の侍屋敷が形成されたと考えられる」などと記されていました。