どうも。旅するおやじ旅吉です。
全国半周の旅から帰ってやがて1ヶ月。無事に孫も生まれたし、そろそろ、ということで、短い日程だが車中泊の旅に出た。
実は4月下旬にも一度、車中泊の旅に出た。「孫の出産までもう少し時間がかかりそうなので、悪いけど、ちょっと出てくる」と長崎方面へ。
ところが、長崎市の伊王島(今は橋でつながっている)で一泊した翌朝、妻から「娘の陣痛が始まった。早くて今日の夕方か」との連絡。「さすがに帰らないわけにはいくまい」ととんぼ返りしたわけだが、驚くことに正午過ぎには「産まれた」のラインが入った。
え〜、安産過ぎるだろ。陣痛が始まってわずか3時間。
全国半周の旅の時、あちこちの神社仏閣で「無事に孫が産まれますように」と祈願したのが功を奏したか。個人的な推測では、昨年秋の宮崎車中泊の旅で日南海岸にある鵜戸神宮(祭神は神武天皇の父ウガヤフキアエズ。安産祈願で有名)に参拝したのが一番効果があったのでは。皆さん、あそこは安産にいいですよ。
それから早半月。GWも終わり、「そろそろいいかな」と今度は東へ旅立った。まずは古代史に興味を持つきっかけとなった高千穂へ。何度も訪ねた場所ではあるが、いつも日帰りだった。
夕方近くに高千穂に着き、まずは国見ヶ丘へ。正直、あまり期待してなかった。ところが、ここが凄かった。晴天の夕方ということもあったのかもしれないけど、東側には高千穂の町並み、北側には祖母山の山並み、西側には遠くに阿蘇の五岳。ありきたりの表現になるが、感動しました。
一枚目が高千穂の町並み。2枚目が阿蘇方面。3枚目が祖母山方面。
何しろ天孫降臨で有名な地なので、皇族もたびたび訪れている。展望台には立派な赤松が続き、雅な雰囲気。車中泊ができそうな駐車場があったけど、夕食を買い込んでなかったし、風呂にも入りたかったので諦める。
結局、高千穂の道の駅で車中泊。駐車場の真横に上の写真の石像が。夜間はライトアップされ、とても不気味。一体なんの石像だろうと近づくと、アメノウズメでした。天の岩戸に閉じこもったアマテラスを表に引き出そうと愉快に踊った女性。ただあまりに顔がドアップなので、トイレに行くたび怖くて。子供の頃から被り物のぬいぐるみが苦手だったもんなぁ。
翌朝、道の駅から高千穂神社、高千穂峡と歩いてみた。行きは良かったけど、帰りがきついのなんの。高千穂は斜面に作られた町。標高さは予想以上だった。
高千穂峡はGW末の大雨で水量が半端なく、それだけに迫力がありました。
で、改めて神話と高千穂の関係を考えてみた。
鎌倉幕府が高千穂神社に記念の杉を植樹したことでも分かるように、鎌倉時代にはすでに「天皇家とゆかりの深い高千穂」という情報は国民が共有していたのだろう。なぜなら奈良時代初頭に編纂された古事記と日本書紀には「日向の高千穂の峯の‥」という天孫降臨の下りが出てくるから。
おそらく奈良時代以降、インテリ層には一環してこの情報が頭の中にあり、江戸時代の国学、尊王攘夷の高まりで、その情報は一層広がったことだろう。
最近読んだ本で知ったのだが、関西を中心に存在する古墳に仁徳天皇陵や応神天皇陵など歴代の天皇を当て込んで確定させ、整備を進め、現在のような形態にしたのは、幕末から明治初期なのだ。
もちろんそれまでの書物や地元の伝説などを精査しての判断だったのだろう。でもかなりのスピードで「帳尻合わせ」をしたのは間違いなさそう。
例えば、ほぼ実在が否定されている神武天皇の陵(奈良県橿原市)は、幕末、孝明天皇の大和行幸に合わせ急ぎ整備したらしい。
そうした情報を宮内庁がそのまま引き継いでいる。ただ考古学の進展で現実の被葬者とのズレが表に出始め、古代史研究者と宮内庁の対立を招いている。いっそのこと一括して調査をしてしてしまえば良さそうだが、宮内庁は「天皇家の祭祀の場としての静安と尊厳を守る」ことを理由に拒否しているとか。
なんだかなぁ、とは思う。ただ種明かししてしまうと逆に白けてしまう部分もあるのかもしれない。そのあたり、宮内庁は「よく分かってる」のかもしれない。
まぁ色々考えてしまう部分はあるけど、少なくとも1300年間、日本国民に共有されてきた「神話の里」の存在価値は十分すぎるほど高いと思います。