一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

古代史全体を俯瞰するための備忘録

どうも。旅するおやじ旅生です。

古代史の話に戻ります。ここ数か月、関係本を乱読しているうちに全体像が少しずつ見えてきた感じがします。古事記日本書紀記紀)の神話の世界から推古天皇あたりまで、自分の頭の中を整理する意味も含めて、ざっくりまとめてみます。ほぼ備忘録みたいなものになりそうです。

神武天皇まで】

▽舞台 高天原、筑紫の日向の高千穂、出雲など

完全に神話の世界。神話通りにいくと神武天皇縄文時代にあたる紀元前660年に即位したことになります。このあたりも含め、まず間違いなく架空の人物。神武の曽祖父は、高天原から地上世界に降臨したニニギノミコト天照大神の孫)。神武はいわば半分神、半分人間みたいな感じです。

天孫降臨の具体的な地がどこかははっきりしません。九州であることは間違い無いですが、宮崎の高千穂、霧島、祖母山、阿蘇など諸説あります。このあたりは私が神話に興味を持ったきっかけになりましたが、「神話を無理やり史実に関係づけること自体、間違っている」という意見もあります。確かに正しい意見なのでしょうが、それでも「何かしら意味があって(例えば、後に大和に移動した有力な豪族が住んでいた地域とか)」地名を出しているような気もするわけです。

司馬遼太郎は史実8割・フィクション2割で小説にしている感じがします(もちろん作品によりこの割合は変わります)。だから歴史の勉強になるし、飽きることがありません。

このさじ加減が実は日本の神話にも共通しているのでは、と思うのです。史実3割・フィクション7割ぐらいではないのかと期待してしまいます。だから古代史ファンは、その3割がどの部分なのか懸命になります。その気持ちよく分かります。

ところで宮崎県各地に神話にまつわる地名や旧跡が残っていることは以前も書きました、私の勝手な推測ですが、今風に言うところの「地域おこし」「地域振興」のために後世の人々が頑張って作り立てた部分もかなりあるのではないか、と思っています。特に尊王思想が強まった幕末から明治にかけて。そのあたりのこと調べてる研究者はいないんですかね。

ちなみに神武東征のルートはなぜだか明確で、宮崎の美々津を出港し、大分の宇佐などに立ち寄りながら遠く大和で在来の勢力を駆逐して初代天皇となります。下の写真は美々津の港にある記念碑です。風光明媚ないい場所です。

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神話が史実をどれだけ反映しているかは別にして、天皇家の祖先が九州から大和方面に移っていったのはかなり高い確率で間違いないような気がします。何しろ九州は渡来人も多く、中国の史書に顔を見せるクニが多数存在する文化の先進地だったのですから。それが3世紀以前だったのか、以後だったのか。邪馬台国論争のカギになりそうです。

 

欠史八代の時代】

▽舞台 おそらく奈良盆地

神武の子である2代綏靖天皇から9代開化天皇は、帝紀天皇家の系譜)には名があるが、事績が旧辞に記されてなく、後世に創作された存在と見る向きが有力です。欠史八代と呼ばれます。みんな100歳、あるいはそれ以上長生きしており、その荒唐無稽ぶりはすごいものがあります。ただ実在だったとする声も根強いらしいのです。

この欠史八代を現実の年表にあてはめたいけどあてはめられません。ただ、奴国が後漢から金印「漢委奴国王」をもらったのは、無理に入れるならこのあたりの時代でしょうか。いわば弥生時代の真ん中頃ですね。

 

【10代崇神天皇〜14代仲哀天皇

奈良県桜井市三輪山から東海・北陸・九州など

崇神王朝と言われる時代です。「実在の可能性がある」とされる最初の天皇が10代崇神天皇。事績も豊かで「ハツクニシラススメラミコト」と神武天皇と同じ名で称えられているところから、神武天皇と同一人物とみる向きもあります。

奈良盆地の南東にある三輪山の西麓に都をつくり、ヤマト王権の基盤を固めます。北陸や東海に四道将軍を派遣したり、大物主を祀ることで疫病を鎮めるたりしています。

 

なお、崇神が拠点とした三輪山西麓には纏向遺跡があります。もちろん行ったことがありません。キャンピングカーが届いたら必ず行こうと思います。

国史跡のこの遺跡には、最古級の前方後円墳とされる箸墓古墳もあり、遺跡一帯を「ヤマト王権の草創期の拠点となる都市だった」と主張する人もいます。

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箸墓古墳

ちなみに、崇神天皇が活躍したのは3世紀前半と推測する説は多いようで、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国と同時代です。そうなると邪馬台国はこの崇神王朝ではなかったかと思いたくなります。崇神の叔母で巫女だったとされるヤマトトトヒモモソヒメノミコトが卑弥呼で、崇神はその弟王だったと主張する人は結構多いようです。ちなみに前出の箸墓古墳はこの叔母の墓とされています。

10年ほど前、纏向遺跡では大きな建物の跡が発見されるなど、邪馬台国近畿説が強化されることになりました。

崇神の孫が景行天皇熊襲征伐に来た王として九州各地に伝承があります。私が住む熊本では人吉→芦北→八代→阿蘇→玉名などを巡ったとされています。下の写真は景行天皇の伝説が残る水島(八代市)。この島で食事をした景行天皇がその際に湧き出した水を飲んで喉の渇きを潤したと伝えられています。思えば、九州で一番馴染みの深い古代史上の天皇景行天皇なのかもしれません。

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景行天皇の息子が有名なヤマトタケル。同様に熊襲征伐に出掛け、その後、東国で蝦夷征伐をします。ただあまりの英雄ぶりに、これまでのヤマト王権の実績を、一人の人物に凝縮した架空の英雄であるという話もあります。その息子で神功皇后の夫である仲哀天皇も実在かどうか疑われています。さらに景行天皇も後に創作された人物と見る向きもあります。中国の歴史書倭国が顔を出さない時代だけに、なかなか裏が取れないですね。

確かに言えることは、この時代はヤマト王権が近畿で地固めをし、他地域に勢力を拡大した時代だったようです。

 

【15代応神天皇〜25代武烈天皇

▽舞台 倭国朝鮮半島、中国

応神王朝へ時代は移ります。倭の五王の時代。ヤマト王権はさらに勢力を増し、中国の歴史書にも登場し始めます。

応神を妊娠していた神功皇后朝鮮出兵から帰国後、筑紫で出産。神功皇后が腹違いの応神の兄たちを滅ぼした跡、応神は15代天皇として大和に入ります。「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」との主張はかなり有力ですが、これだけ事績がある人であるにもかかわらず学術的に実在かどうかまだ確定には至っていないようです。息子の仁徳天皇と同一人物とする見方もあります。仁徳天皇は聖帝として有名です。

応神天皇で王朝交代があったという学説は頻繁に語られています。以前の皇統とは無関係な人物が新たな王朝を興したという考え方です。この王朝は大和地方ではなく河内地方に古墳(有名な応神天皇陵、仁徳天皇陵など)や宮を多く築いています。仲哀天皇の変死、神功皇后の妊娠期間など不自然さなども王朝交代の根拠になっているようです。

まだまだ話は続くので、ここらで一度お開きとします。