一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

山の辺の道はやはりいい

どうも。旅するおやじ旅吉です。

1ヶ月余りにわたる全国半周の旅で唯一、二度訪ねた場所がある。奈良県石上神宮とその南北に伸びる「山の辺の道」だ。旅の3日目と最終日。1カ月の時間を挟んでいたので、2回目の訪問の時は「懐かしい」と感じた。

特に山の辺の道は、歩いているとなんだか清々しい思いに満たされ、すこぶる機嫌が良くなる。「空気が澄んでるなあ」とか「あの遠くの山はおそらく二上山かな」など独り言をぶつぶつ言ったりする。機嫌がいいと独り言が増える。

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山の辺の道は、奈良市若草山あたりから桜井市三輪山あたりまで南北に続く、古代から残る古道。舗装されていない山道だったり、昔ながらの集落の中を通ったり、表情が豊かに変わるので歩いていて飽きない。もちろん車や自転車で走破するのは無理。

ちょうど真ん中あたりに石上神宮天理市)があり、ここから南側の大神神社桜井市)にかけては崇神天皇陵や景行天皇陵、箸墓古墳などの大きな陵墓が並び、特におすすめだ。三輪山山麓にあたるこの一帯は、ヤマト王権誕生の地なのだ。f:id:noaema1963:20230428135016j:image

ちなみに、石上神宮伊勢神宮と並ぶ歴史がある。日本書紀にもその名が出てくる。鎌倉期に建てられた拝殿は国宝だ。

ヤマト王権の軍事を司った豪族・物部氏の武器庫も兼ねていたとされ、今でも神職には物部氏の末裔も。

石上神宮と言えば、百済でつくられとされる国宝の七支刀はその形、その伝承ゆえにつとに有名。もちろんこちらも国宝。熊本の江田船山古墳からは、雄略天皇を指す「ワカタケル」の文字が刻まれた太刀が見つかっているが、七支刀はまだ遥かに時代を遡りそうだ。
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参道から拝殿の方に近づくと、境内に鶏の泣き声が響き渡っている。色とりどりの鶏が放し飼いにされていて、伊藤若冲の絵を思い出す。「鶏ってこんなに綺麗だったんだ」と、餌を啄む姿を見ていても全く飽きない。時々、場所の取り合いで小競り合いになる。「どの鶏が一番強いんだろう」と観察するも判別がつかず。猿山のボスなら簡単に分かるのに。

鶏の鳴き声さえも神々しく感じる。それほど石上神宮はパワースポットとして訪ねる価値ありだと痛感した。

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石上神宮を貫くように山の辺の道が通っているので、南側の桜井市方面へ数キロ歩いてみた。

山の辺の道は「歴史好きにはたまらないハイキングコース」と言えそう。この日は3月中旬の日曜日だったが、いたって静かで、時折、中高年のご夫婦や親子連れとすれ違う程度だった。でもそのくらいがいい。

しばらく歩くと内山永久寺跡に。石上神宮の神宮寺として幕末まで「西の日光」と言われる繁栄を見せたが、明治の廃仏毀釈で完全に破壊された。今訪ねても、それほどの大寺院があったことはわからない。文化財保護の観点から見ると、あまりにも「惜しい」。源平や戦国の騒乱、太平洋戦争の空襲と並び、廃仏毀釈がもたらした影響は相当なものだろう。

話は飛ぶが熊本市の姿を大きく変えたのは、西南戦争、空襲、熊本地震の三つではないかと思っている。
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内山永久寺を後にしてまた歩き進むと茅葺きの拝殿が目を引く「夜都伎神社」に。奈良市春日神社と関係が深く、俗称として「春日神社」と呼ばれている。大和地方で茅葺きは珍しいらしい。確かに「五畿内」と呼ばれる地方は寺院も神社も大規模で高級感のある建造物が多いので、黒々とした瓦や上品な檜皮葺は多いけど、素朴な茅葺きはあまり見ないような。でも山の辺の道にはぴったりです。

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山の辺の道は時折、こうした昔ながらの集落を通過する。路地は迷路のようで、中には堀で囲まれた戦国時代の名残である環濠集落も。静まりかえった集落に迷い込むとなんとも言えない幸福感に包まれるのは旅吉だけなのだろうか。
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さらに南下すると崇神天皇陵。かなりの規模の前方後円墳宮内庁が治定し管理しているので中には入れない。ただこの治定も、幕末の尊王攘夷の高まりを受け、幕府が一気に進めた調査によるものが多く、考古学の学術的な調査などなしに当時の国学者の見方を頼りとしたようだ。明治政府もまた、国威高揚を狙ってその作業を受け継いでいる。なので考古学的な研究が進むにつれ、史実とのズレが明確になっている。

幕末までは古墳が古墳として扱われず、農地の一部だったり、薪を得るための共有地だったりで、今のような「整然と守るべき場所」ではなかった。いわば今の古墳の景色は明治以降に作り上げられた景色なのだ。

それでも宮内庁が管理する巨大な前方後円墳に出会うとテンションが上がる。

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下の写真は、卑弥呼が被葬されたとも言われる箸墓古墳桜井市)。以前も書いているので良ければそちらも。
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noaema1963.hatenablog.com

 

ところで山の辺の道が通る天理市は、天理教の町として有名だ。でも天理教を信奉する人でない限り、天理教の施設に注意を向ける人は少ないのでは?

この施設がとんでもなくすごい。大きさ、数、共にすごい。

下の写真に見るような建造物が石上神宮の西側一帯に広がっている。本部の施設、関連の文化施設、学校、関係者の寮などだ。いずれも和洋折衷というかなんというか。5〜6階建の巨大なコンクリートの施設に唐破風の付いた大屋根がかぶさっている。

この統一感のある町並みはあまり他では見ることができない。まさに宗教都市。それも全国一と言っていいのではないか。アニメに出てきそうなまちだ。写真では伝わらないが、実際に近くで見るとその大きさに圧倒される。東大寺の大仏殿を目の前にした時の迫力に近い。

奈良の建造物は他とは桁外れと言っていいのかもしれない。大仏殿、大仏、興福寺五重塔天理教の建物群。一括して何かに登録できないものか。

一番下の写真は天理大学を正面から撮影している。で、その一階部分を車道が貫いている。実際に旅吉はこの下をキャンピングカーで通過した。公道なのか私道なのか、よく分からないままに。

天理教の施設には一般の観光客も入っていいようなので、次回は是非とも訪ねたい。

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