コロナウイルス感染がひと段落して、人々の動きが少しずつ元に戻りそうな感じである。
ただ、ここで気が緩むとまた2週間後に一気に感染者が増えることだろう。それも怖い。しかし家でじっとしているのは辛い。
そこで県外に出ることなく、3密になることなく、旅心をなだめる手はないものかー。
考えた結果、熊本市の我が家から一番遠い、天草西海岸を巡る長距離ドライブをしながら、プチサイクリングを交えてみた。
風土も言葉も長崎に近い天草
「もし故郷を選べるとすれば、自分は島原より天草を選ぶだろうと思った。口之津からみる海より、鬼池からみる海の方が、海景が明るく感じられるのである」。
司馬遼太郎が、街道をゆく「島原・天草の諸道」でそう語っている。島原半島の口之津港から天草の鬼池港に到着した時に感じた感想である。
風景評論好きの私から言わせれば、理由が明瞭だ。
確かに島原半島からみる有明海は、海の向こうに天草の低い山々が脈絡なく続き、なんとなくはっきりしないぼんやりとした景色なのだ。おまけに逆光のせいで天草の島々が影となり、どこかしら陰鬱になる。
ところが天草側からみると、海の向こうに、桜島にも似た優しさと厳しさを併せ持つ雲仙の山塊が屹立している。有明海の照り返しに映えて、絵を見るような美しさがある。
太陽を背に富士山を北側に見る静岡の明るさと似通っている。
司馬遼太郎はこの本の中でしきりに天草の明るさを強調し、「なぜ明治政府は天草を、それまで風土や気質が共通し、交流が深かった長崎県に組み込まず、熊本県に組み込んだのか」と語っている。
実際のところ、天草の下島あたりは、旧細川藩(大雑把に言って、天草と人吉球磨を除く現在の熊本県)のエリアより長崎に方言が近く、海岸線の荒々しさも五島列島など長崎県の景色と似ているのはしばしば感じるところだ。
通詞島近くから富岡半島へ自転車で
というわけで、鬼池港から数キロ西側に行った通詞島近くにある道の駅に車をとめ、自転車で富岡半島を目指すことにした。片道15キロほどを往復することになる。
このルートは海岸沿いを走る国道の道幅が広く、長崎方面をゆったり見渡すことができる。江戸時代、天草の中心であった富岡の地にじんわり近づいてみようという試み。
胸元のポケットで安物の携帯ラジオを鳴らしながら、走る。海沿いの道はやはり最高だ。
遠くに西彼杵半島。あいにくの薄曇りでぼんやりしているが、山々の向こうには長崎市の街並みが広がっているのだろう。天草の島々は南へ行くほど海岸線が荒々しさを増すが、まだこの辺りは穏やかだ。
案の定、ラジオは長崎と熊本の放送局を同じくらいはっきりと受信している。しばらく長崎の放送を聞く。方言丸出しの女性パーソナリティーが聞いたことのない地名をしきりに出している。基本的に、有明海を囲む地域の方言は似ている。明治以前、人々がいかに海路を通じて交流していたかが分かる。
だから大分弁と熊本弁は大きく違う。一瞬、「この人、関西出身?」と感じるほど、大分弁は瀬戸内言葉なのである。
しばらく進むと苓北町に入る。この町は九州電力の火力発電所を抱えるため財政が豊かなこともあり、天草で唯一、平成の市町村合併をしていない。多くの自治体が天草市と上天草市の二つにまとまる中、独自の姿勢を貫いた。
自転車は次第に苓北町の中心地である富岡地区に近づくが、町役場をはじめとする公営の施設の豪華さが財政力の高さを感じさせる。ちなみに日本サッカー協会会長で4月にコロナ感染を経験したばかりの田嶋幸三さんはこの町の出身で、町長はお兄さんである。
富岡は歴史的にも地学的にも特殊
地図を見れば分かるが、富岡半島は陸繋島(沖の小島が砂州で繋がった島)であり、町並みはこの砂州の上に縦長に伸びている。地侍が支配した中世から天領だった幕末にかけ、富岡は天草の中心だったこともあり、町並みはどこか雅で、天草の他の場所とは違う静寂さに包まれている。長崎への玄関口だったため、勝海舟、北原白秋、林芙美子ら多くの偉人や文化人がやってきている。
両岸には防砂林なのか松林が続く。さらにもう一つ、砂州だけではなく、砂嘴(さし。砂州と同じく海流などの影響で土砂が堆積した、小さな半島みたいなもの)まで存在する。この富岡半島は地学、歴史の両面において極めて特殊な存在であるように思う。
それを高いところから見てみようと、富岡城跡に登ってみた。
天草は江戸初期、寺沢氏(佐賀の唐津城主)が関ヶ原の戦いの恩賞として獲得した飛び地。寺沢氏は富岡に城を築くが、島原天草の乱を理由に天草領を没収され、その後、山崎氏の富岡藩→天領→戸田氏の富岡藩→天領と目まぐるしく移り変わる。
ちなみに島原天草の乱の際、寺沢氏の富岡城代だった三宅藤兵衛は明智光秀の孫にあたる。
寺沢氏が天草に悪政を敷いたかというと決してそうでもないようで、天草領を得た際、寺沢氏が4万2千石(実際は2万石もなかったらしい)という過剰な石高を幕府に申告してしまったため、それ以後、乱へと続く領民の苦しみが始まったようだ。後の天領時代、幕府代官の進言で2万千石となった。
戸田氏の時代に三の丸以外は破却され、天領時代はそのまま三の丸が陣屋となる。城跡は江戸時代の絵図をもとに最近復元されたものである。
富岡全体を俯瞰する
シイやビワ、ヤツデなど常緑樹が黒々と生い茂る、今にも蛇が出てきそうな登山道をゼイゼイ言いながら、10分ほど登ると城跡に出る。
城跡は石垣から建物に至るまで綺麗に整えられ、富岡の町並みも俯瞰できる。あと100メートル程標高が高ければ、もっといい感じに眺められるだろうが、まあ今でも立派なものである。
砂州に伸びる家並み、その左手には木々と砂浜が弧を描く砂嘴。右奥には火力発電所が見える。俯瞰好きな私にはなんとも嬉しい景色である。歴史資料館もあり、パネルや城跡調査の発掘品などがたくさん並んでいる。ただあまりに情報が多すぎて、半分も読めなかったが。
島原・天草の乱で多くの領民が死に、天草の人口は激減したという。このため幕府の指示があったのか、隣接する他藩から多くの農民が移り住んだらしい。天草市出身のある同僚は「うちの集落は薩摩から来た人たちが多いそうです」と語っていた。