どうも。旅するおやじ旅生です。
世界遺産に登録されている「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の後編。先日の記事だけでは書ききれなかった部分があるので、後編を作りました。
宗像大社の西側に「新原・奴山古墳群」があります。ここも世界遺産の一部。
古代祭祀を司った海人族である宗像氏が被葬されていると思われ、古墳時代中期から晩期にかけての前方後円墳や方墳、円墳がいくつも並んでいます。玄界灘や筑前大島、農村風景と一体化した景観から、関連遺産として登録されています。
実はこの古墳群、宗像大社を訪ねた日に初めて存在を知りました。
古墳群の南側に展望台があり、駐車場に車を止めると、ガイドのおじさんが意欲的なオーラを発して事務所から登場。「説明しましょうか」という誘いを断りきれず、全編15分ほどの解説を聞きました。
古墳の概略の説明がほとんどで、地元豪族の宗像氏についての説明は聞けませんでした。本当はそこを聞きたかったのですが…。質問をはさむタイミングもなく、あまり時間もなかったので、別の観光客が来たのを見計らって、写真撮影を済ませ、退却させていただきました。
この古墳群の特徴は、時代が進むにつれ、比較的規模が大きい前方後円墳から小規模な円墳へと移り変わる様子がよく分かること。ガイドの方はその理由を「仏教の伝来で埋葬の在り方が変わってきた」と言われていました。
推古天皇の頃から「古墳ではなく寺院」という考え方が畿内から全国へと伝播していきますが、古墳は奈良時代の入り口あたりまで存続。奈良の高松塚古墳などは最晩期にあたります。このころはヤマト王権の象徴である前方後円墳は全く姿を消します。
何度か書いてきましたように、全国数ある古墳について、被葬者はなかなか分からないことが多いのです。この古墳群みたいに「宗像一族の古墳と思われる」とぼんやりとでも分析されるのは、筑紫の君磐井の墓とされる岩戸山古墳(八女市)と並び、かなり珍しいのではと思った次第です。
宮内庁が天皇陵とされる古墳の数々を調査させてくれたら、いろんなことが一気に解決すると思うのですが、そういう日は来るのでしょうか。
ちなみにこの古墳群の北東側(上の写真で言うなら、海岸線の手前)は江戸時代以前まで湾になっていたそうです。今の海岸線が砂州になっていて、その内側は内海になっていたそう。その砂州は津屋崎へと続き、独立した島だった大峰山あたりとつながっていたようです。今で言えば志賀島、海の中道、博多湾の関係。
その後、黒田藩による干拓が進んだことで内海はなくなったようですが、今も地図を見ると、津屋崎の港あたりに不自然さが残っています。
ちなみに宗像大社あたりも湾が入り込んでいたようです。古墳群も宗像大社も海岸沿いにあったということですね。
ところで津屋崎の話が出たついでに。津屋崎の港の近くにあるのが宮地嶽神社。「三韓征伐」(名前がすごい)で有名な神功皇后が朝鮮出兵の前に祈りをささげた伝説が残ります。日本一の注連縄と、海岸線から続く参道が夕日で光り輝く「光の道」で有名。
筑前大島からの帰り道、再度この宮地嶽神社の前を通ると、参道は人でいっぱい。ネットを確認するとこの日の前後が「光の道」が見れるベストな時期のようでした。
でもこの日は曇りなので、たぶん見えなかったと思います。