一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

潜伏キリシタンの地を走る

天草下島を巡る旅は続く。

自転車で通詞島近くの道の駅に帰り着いたのは、すでに午後4時を過ぎていた。冬ならば早くも1日終了といった時刻だが、この時期はまだまだ明るい。

ということでさらに天草下島の西海岸を南へ向かう。

先ほど必死こいて自転車をこいだ道をそのまま再び苓北町へ。富岡半島の方へは向かわず、下田温泉方面に向かう。 

下田温泉は天草西海岸をめぐる時は必ず入る温泉だが、公営温泉の白鷺館は新型コロナの影響で休館中。仕方なく、さらに南下。まだまだ陽は沈みそうにない。頑張ればあと一回くらいは自転車に乗れそう。

西海岸は荒々しさが売り

間も無く鬼海ケ浦展望所に到着。西海岸らしい景色。荒々しい巨岩が海からそそり立つ。ただ展望台に立つと、巨岩があまりにスケールが大きく、実際に展望台から海までどのくらいの距離あるのか、人間はどの程度の大きさなのか判別できず、頭の中がプチパニックになり、くらくらっとする。高所恐怖症も手伝い、再度くらくらっとする。

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気を確かに持って遠くを見ると、長崎の西彼杵半島。そのずっと向こうは中国の上海あたりである。古代なら呉、越のあたりだ。今の浙江省。思えば、南蛮や中国からこの辺りに船でたどり着いた人々も多かったことだろう。天草は外に開けた場所なのだ。

さらに南へ。まだ整備が行き届いてない細い山道がうねうねと続き、大正時代くらいに掘られたのだろうか、短くて小さなトンネルが続く。

私が子供の頃は、天草西海岸の全てがこんな道路だった。初めて親に連れてこられた小学校5年生の時、あまりの海の美しさに驚き、夏休み明けの作文に「まるで飲み水にしていいくらい、海の水がきれいだった」と書いたのを今も覚えている。塩分が強すぎて腎臓を悪くする、など純粋な子供は考えないのだ。

定点観測地の小田床港

西海岸で必ず立ち寄る「定点観測地点」がある。

小田床港という小さな入江だ。両側を切り立った崖に挟まれたようなひとけのない港で、おそらくほとんど利用されてはいないのだろう。

ここに来る時はなぜだか天気が悪く、いつも自分が何か大きな苦しみを抱えているような気分になる。崖に刻まれた地層を見上げていると潜伏キリシタンの重い歴史を垣間見たような思いにとらわれる。

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この日は若者の車が何台か止まっていた。ルアー釣りをしている人もいた。ちょっと離れた場所では、車の中で女性が一人、本を読んでいた。この景色に包まれて本を読んだら確かにストーリーの中に没入できることだろう。さらに南を目指す。

海水浴場で有名な高浜はスルーして、大江天主堂を横目に見ながら、羊角湾沿いを走る旧道に入った。駐車場に車を止めて自転車を走らせることにした。

潜伏キリシタンの話を先ほど書いたが、このあたりは潜伏キリシタンの文化が今も色濃く残っている。

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羊角湾はいつも波静かで、とろんとした風情がある。湾の対岸は海洋アルプスのようにそそりたつ山並みがさらに南へと続く。この山並みは「向辺田(むこうべた)」と呼ばれる。牛深の町から道が通じているようだが、おそらくほとんど人は住んでいなさそう。天草西海岸の真骨頂といった景色である。

釣りに明け暮れた頃、この辺りに頻繁に通った。不思議とそんな時は景色とか歴史とか、そんなものは考えもしなかった。「とにかく2キロのチヌが釣りたい」と危険も顧みず、時には一人で沖磯に渡してもらったものである。

面白くはあったは、ただれてはいた。

江戸時代の天草の苦しさ

そんな頃を思い出しながら、海岸沿いを自転車で走る。

やがて崎津集落へ。集落の一角に崎津天主堂が佇む世界遺産の町である。時計を見ると午後6時に近い。さすがに観光客はいない。何よりコロナ感染予防のため、道の駅も数カ所点在する駐車場も閉じられていた。

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戦国時代、南蛮船が渡来して以来、天草はキリシタン文化で栄えた。それゆえ肥後を治めた加藤清正も「難治の島」と見て、天草を統治することを避け、代わりに豊後の一地域を幕府からもらっている。

その結果、関ヶ原で徳川側についた唐津藩主の寺沢氏が飛び地として天草を与えられたのは、前回書いたばかりである。もし清正が天草を統治していたら、島原天草の乱はまた違う形になっていたのか、それとも同じ結果だったのだろうか。

江戸時代における天草の苦しさは、本藩の目が届きにくい、物なりの良くない、〝巨大なる飛び地〟だったことも影響しているように思える。

対馬の島々にも似て平地の少ない天草を自転車で走り、ふとそんなことを考えた。