一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

有明海沿いの干拓地を巡る

自転車を車に乗せて、北へ向かう(ここは南なのに。「あまちゃん」好きには分かるよね)。

午前8時半。熊本の自宅を出発。目的地は未定。とりあえず有明海沿いに福岡方面へ。西高東低の気圧配置で北風が強いが、空はどこまでも青い。

大牟田市の駐車場に車を止め、自転車で海沿いに広がる干拓地や漁村を巡り柳川へ。これが私の頭の中に描かれたルート。なぜだか、柳川、大川、佐賀あたりが以前から好きで、定期的に「ものすごく」行きたくなる。せいぜい自宅から70キロ程度の場所なのに、旅心を満足させてくれる何かがある。

f:id:noaema1963:20201110221605j:image

自動車専用道路である有明海沿岸道路と付かず離れず走っていると、矢部川を渡る巨大な橋の下を通過。干拓地の至る所から見えるシンボル的存在である。まさに巨大建造物。なぜここまで大袈裟に造ったのか、国土交通省に聞きたくなる。
f:id:noaema1963:20201110221557j:image

矢部川筑後川の河口近くには、こんな感じの漁港が多い。山本周五郎の「青べか物語」を思い出す。ディズニーランドができたころの浦安に似ている。向こう側には先程の橋。

北風が強いので、前に進むのが大変である。倍の体力を使う。エッサホッサと走り続け、やがて有明海へ。ちょうど潮が引いて、ものすごい数のムツゴロウがうごめいていた。潟がモゾモゾしている感じ。可愛いと言えば可愛い生物である。

しばらく堤防の上でぼんやり。至福の時間だ。目の前には雲仙岳。左手には大牟田の工場群、右手には多良岳。水平線が望める「海らしい海」ではないが、沿岸の九州人にとっては忘れ得ない「故郷の景色」なのである。まったりとした海だ。残念ながら写真を撮り忘れた。

これは私見だが、江戸時代以来、干拓地が広がったエリアは今でも比較的豊かなのではないかと考えている。

当然そこには必ず大量の土砂を海へ押し流してきた大河(筑後川、緑川、球磨川)が存在するので、交通も発達した。干拓により平野が広がると開発の余地が出てくる。道も鉄道もつくりやすい。人口も増える。こうしてエリアの体力が備わる。

有明海沿い、東京湾沿い、大阪湾沿いは条件に恵まれた場所だったのではないだろうか。ただいずれも遠浅だから、港湾整備は大変だったようだ。浚渫に次ぐ浚渫。天然の良港というのは佐世保、長崎、神戸のような平野が狭くて山が迫った、どん深の海なのだ。

このあたりの干拓地にはクリークが広がる。堀割である。教科書にも出てきた。

Googleマップをみてもらうとよく分かるが、筑後平野佐賀平野には無数のクリークがある。

下の写真のような風景があちこちで見られる。熊本県南部の八代平野に点在する「イグサ御殿」と並び、干拓地を代表する景観と思う。

ちなみにイグサ御殿とは一部の人々が勝手にそう呼んでいる、豪壮な造りの和風住宅。イグサ景気に沸いた1970〜80年代に主に建てられ、ミニ城郭とでも呼びたくなるような破風を組み込んだ民家。陽光に照らされ黒光りする様子は、当時の豊かさをよく表している。このまま100年保存したら、「八代平野のイグサ御殿群」として日本遺産レベルにはなるのではないかと勝手に思っている。

f:id:noaema1963:20201110221609j:image

そして柳川の町中へ。水郷の町は相変わらず観光客でにぎわっている。柳川藩主立花氏の城下町である。いまも殿様のご子孫が「御花」という資料館が一緒になった料亭を経営。よくNHKの旅番組などで紹介される。
f:id:noaema1963:20201110221547j:image

柳川市の中心部は以前の城下町がそのまま今の町に重なっている。古い建物がたくさんあるわけではないが、延々と続く堀割沿いには柳の木が植えられ、風情がある。

オノヨーコの先祖が住んでいた場所もあった。柳川藩士の子孫だったとは。知らなかった。
f:id:noaema1963:20201110221601j:image
f:id:noaema1963:20201110221553j:image

午後1時半。やがて40キロ近く自転車を漕いで、尻が痛くなってきたので、西鉄柳川駅近くに自転車を置かせてもらい、車を取りに電車で大牟田へ。バスで車を止めた駐車場に行き、車に乗って再度柳川駅に。無事、自転車を車に積み込み、近くの大川市にある温泉でゆったり。

こんなトリッキーな行程がなにより好きなのである。こんなルートを組める私の能力、だれか誉めてくれ〜。