どうも、旅するおやじ旅生です。
年末年始に高千穂や宮崎市周辺を旅してから、俄然、神話や古代史に興味がわきました。
最近読んでいるのが、40年ほど前に出版された「日本史探訪 古代王国の謎」。邪馬台国、近江王朝、出雲王国などが当時の考古学者や評論家らの対談という形で描かれています。ちなみに松本清張や角川源義も論陣を張っています。ほぼ全員が明治、大正生まれ。
最後の章に出てくるのが磐井の乱です。
ちなみにWikipedia先生によると…。
磐井の乱(いわいのらん)は、527年(継体21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井(『日本書紀』は筑紫国造だったとする)がはばみ、翌528年(継体22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。
日本史の教科書に磐井の乱が出てきたのはよく覚えていますが、どんな歴史的意味があったのか、いつ頃の出来事だったのか、ほとんど忘れていました。というかほとんど興味がありませんでした。
ただ古代史の知識がわずかながら増えるにつれ、「磐井ってすごくないか。地元九州勢としては知っておかねば」という思いが強まりました。で、この本の中で「磐井の墓=福岡県八女市の岩戸山古墳」と知り、早速、出向きました。
場所は八女市の北の端、国道3号線のすぐ横。これまで何度となく通り過ぎた場所でした。国道から見るとただの小さな丘にしか見えませんが、九州最大の前方後円墳なのです。
駐車場から2、3分歩くと四角い芝生広場。
実はここは「別区」と呼ばれるエリア。円墳部分に接する場所に位置しています。筑後国風土記に記された磐井の墓にはこの別区のことが記されて、状況が合致したことから、この古墳が磐井の墓とわかったそうです。
だれの墓なのか特定された古墳は全国でも珍しいとされています。
別区には、下の写真のような石人が昔から並んでいたとか。奴凧みたいな可愛らしさが漂いますが、どこか怖くもあります。おそらくは戦士を模したものでしょう。実物は大切に保存されており、これはそっくりに復元したもの。
石人を別区の反対側から撮影しました。別区の説明板も撮りました。
古墳は神社の境内地のようになっています。前方後円墳の上にも上がれるので、実際に上がりました。狭い石段を10メートルも上がれば頂上。社や碑がたち、常緑樹がうっそうとして、だいぶ蚊に刺されました。
古墳の周囲は公園化されていて資料館もあるのですが、コロナの影響で5月末日まで休館。ざんねん。ぜひまた訪れたい。
磐井は外交力があり、当時大和朝廷と対立していた新羅と通じていたとか。朝鮮半島に出兵しようとした大和朝廷軍を新羅の要請で北九州において阻止した、ということのようです。
磐井は肥後、肥前、豊前、豊後の協力も受けて戦うも敗戦。しかし磐井の一族は全滅させられたわけではなく、その子孫はその後も八女市一帯を治めたようなのです。
それにしても驚かされるのは、当時の日本人の行動範囲の広さ。航海術や道路整備は、まだまだ原始的なレベルと思いがちですが、実際は違ったのかもしれません。
古代の日本の国力、旅生にはなかなか見えません。それだけに学びの喜びも大きい感じがします。
この辺りは熊襲征伐に来た景行天皇が雲仙の山並みを見て「あの山塊は島なのか、それとも地続きなのか」と疑問を呈した地と伝えられています。
確かにこの辺り、絶景の地です。有明海一帯で一番ではないかと思います。長崎も佐賀も福岡も熊本もすべて見渡せるし。