一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

海洋民族として有能だった倭人

どうも。旅するおやじ旅生です。

またまた古代史の話です。東京にいる娘が「一番人気がなさそうな時代だね」と言っていましたが、そんなことはありません。私の見たところで言えば人気がないのは平安中期、鎌倉、室町前半(戦国時代を除く)じゃないのかなと思います。江戸中期も時代劇ではよく描かれますが、そんなに「そそられる」時代ではないのでは? 文化面では充実しますが。

天気が良かったので、八代郡氷川町にある野津古墳群(国史跡)に行ってきました。

場所は不知火海を見渡せる(といっても木々が生い茂り、展望がききません)台地の上です。周りには地元特産の梨の畑が広がっています。国道3号線から狭い農道に入ったのですが、私のプリウスアルファではかなり厳しく、何度も車から降りて脱輪しないか確認したり、一度3号線に戻ったりしながら、どうにか現地に到着。

 

中ノ城、姫ノ城、端ノ城、物見櫓などの古墳で構成されており、6世紀前半〜中期に築造されたと見られています。ちょうど越前から担ぎ出された継体天皇が即位し、やがて筑紫の磐井の乱が起こった頃。被葬者は「火の君(肥の君の表記も)」一族と推定されています。

下の写真は姫ノ城古墳。周濠を含め墳長は115メートル。後期の前方後円墳としては規模が大きいとか。円墳部分の上には木が鬱蒼と生えていて、ラピュタのようです。

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下の写真は横から見たところ。

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端ノ城古墳の横に説明板がありました。でも見学者はなし。おそらく訪ねる人はほとんどいないのではないかと思われます。旅生も隣接する八代市に2年間住んでいたものの、1回もきたことはありませんでした。

ところで火の君とはどんな人々なのでしょう。

6世紀前後、阿蘇のピンク色の溶岩(馬門石)で造る石棺が人気でした。有明海不知火海で活躍した肥後海人たちは石棺を近畿地方まで曳航するほどの海上機動力を発揮。その海人たちを束ねたのが豪族火の君ではなかったと見られています。

同時代人である筑紫の君磐井が九州の北半分に勢力を誇った頃は、配下として追随していたのでしょうが、磐井がヤマト王権に駆逐された後、火の君はヤマトとの関係を強化したようです。王権の象徴とされる前方後円墳を大規模に造ったのもその一端とされています。

思うに、筑紫の磐井は江戸時代における薩摩の島津のような存在だったのでないでしょうか。「ヤマト王権には一応従っているが、常に気をつけていないと何をしでかすかわからない奴ら」といった感じ。磐井の乱平定でヤマト王権はちょっと安心したのでは。

ところで火の君はその後、どうなったのか。

地元の学者の文章によると、奈良時代以降、火の君は筑前肥前方面に進出し、地方長官や在庁官人として活躍したことが史料に出てくるそうです。ただ鎌倉時代以降は史料から名前が消えるとか。

話は飛びますが、古代史を知るにつれ、日本人が海洋民族としての能力にいかに優れていたのか、改めて知ることになりました。

高句麗新羅に対する倭人の侵攻が朝鮮半島の史料に多く残されています。戦国末期の朝鮮出兵の時代ならまだ分かりますが、1500年も前に数千〜数万の兵士が玄界灘を渡海するなど、何となく想像できません。奈良時代、鑑真が大変な苦労を重ねてようやく日本の地を踏んだという話が有名なだけに、その感覚はいよいよ強くなってしまうのです。でも史料にある以上、本当なのでしょう。

おそらく旅生の想像を遥かに超えるレベルで、古代における北部九州と朝鮮半島の行き来は盛んであり、おそらくは会話も、現在の方言レベル(例えば東北弁と鹿児島弁の違いくらい)の感覚でやりとりができていたのではないかと思ってしまいます。

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古墳のあたりからは九州山地が見渡せました。