どうも。旅するおやじ旅生です。
先日初めて訪れた福岡の大野城址を紹介します。9月下旬、朝倉市の平塚川添遺跡を見た日に、こちらにも行ってみました。
ところで大野城とは。
防人たちが守っていた古代山城
天智天皇の時代に造られた古代山城です。働いていたのは防人たちです。
造られた経緯を大野城市のHPなどを参考に書いてみます。
飛鳥時代の670年。朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は緊迫した状況が続き、ついに新羅が唐と手を組み百済を滅ぼします。ただ百済の残党たちが「百済復興」を唱え、倭国に援助を求めます。倭国には百済の王子も亡命しており、付き合いが長いのです。
当時は女帝の斉明天皇でした。中大兄皇子(後の天智天皇)は出兵を決断。斉明天皇と一緒に筑紫(現在の福岡)に向かい、しばらく朝倉橘広庭宮(朝倉宮)に待機し、出兵の準備を進めます。ところが斉明天皇はその宮でなくなってしまいます。このあたりは前々回の記事で書いたので読んでみて下さい。
百済滅亡の3年後、全国各地から数万の兵を集めた大和朝廷は、ついに朝鮮半島に出兵。しかし白村江の戦いで惨敗してしまいます。水面は倭国の兵の血で赤く染まったとの記録も。
恐怖心からできた古代山城
「今度は倭国に唐と新羅が攻め込んでくるのでは」と恐怖心を抱いた大和朝廷は、百済の技術者の指導で朝鮮式山城である「大野城」と「基肄城」(佐賀県基山町)を築き、太宰府の北側に「水城」を築造しました。白村江の戦いの直後です。
ちなみに熊本県北部に残る「鞠智城」もこの頃できた古代山城とされ、数年後の改修記事が「続日本紀」に残っているそうです。
古代山城はこの頃、対馬〜北部九州〜瀬戸内〜畿内に十数カ所造られたことが日本書紀に記載されています。しかしそこに記載されていない多くの古代山城もあり(岡山の鬼ノ城など)、これらは「神籠石系山城」と区別されているようです。
正史に載ってるか載ってないかで呼び方が変わるわけです。意外でした。
大野城址は福岡市の東南にそびえる四王寺山(太宰府インターチェンジあたりからよく見えます)の頂上付近にあります。車で簡単に行けます。ただこの一帯、「県民の森」になっていてハイキングしたり、森林浴する場として定着している感じです。
城址見学に来るのは一部の古代史マニアに限られるようです。
福岡の歴史的実力を見た感じがした
下の写真が大野城の遺構である「百間石垣」。今から1450年前の建造物です。「ヘェ〜」と1人感動し、ぞくぞくしました。
対馬の古代山城、金田城に石垣が残っているのは知っていましたが、福岡市のすぐ近くにこんな遺構があるとは。
福岡は日本で最も早い時期に大陸の情報がもたらされた場であり、常に文化文明の窓口だったわけですが、それを体感できる建造物が少ないのがとても残念。もちろん古墳や発掘品は数多く、宗像大社、太宰府天満宮など有名な神社はありますが‥。奈良・平安時代の歴史的建造物がないからでしょうね。
だからこそ、この「百間石垣」、驚きでした。
近くにあった案内板によると集中豪雨の被害に遭ったこともあるようですが、文化財としてしっかりと保存されているようです。
下の写真は兵舎や倉庫などの礎石。近くに小さな遊園地があり、子供たちの声が聞こえてきていました。
古代山城鞠智城のこと書いた記事も貼り付けておきます。読んでみて下さい。
バリバリのジモティー
それにしても最近知りました。
「大和朝廷」という表記。律令制度の整備が始まった大化の改新以降に使うのが適当であり、それ以前は「ヤマト王権」とか「ヤマト政権」とするケースが多いようですね。
だから天智天皇の頃は大和朝廷としていいのかな、と思いました。
思えば、ヤマト王権が全国をおさえ、九州〜東北の豪族が「はいはい。大王家の命令に従ってあげますよ」となったのがせいぜい6世紀あたりと考えれば、5世紀以前の遠隔地の豪族の思いは「どうも大和にやたらと強い奴らがいるみたいだけど、とりあえず付かず離れず距離取っておこう」という感じだったのではないかと想像しています。
特に、度重なる朝鮮出兵に兵を取られる筑紫の豪族は「ヤマト王権対策」にかなり頭を痛めていたのではないかと思います。
6世紀前半、筑紫の君磐井が反乱を起こしたのもヤマト王権の要求に辟易した結果なのかもしれません。磐井にはなぜか親近感を覚えてしまいます。
やがて各地の豪族は律令制に組み込まれ、朝廷の出先機関で地元採用の「郡司」として幅を利かせることになったようです。
バリバリのジモティーですね。