どうも。旅するおやじ旅吉です。
三連休なので一人キャンピングカーに乗り、宮崎方面に。もちろん古墳! そして現地の図書館で現地でしか読めない歴史本を読む!
宮崎市の生目(いきめ)古墳群を訪ねました。
古墳時代初期の巨大(とまではいかないか)前方後円墳を堪能するためです。
関西にはとてもかないませんが、九州にも100メートルを超す大きな前方後円墳が12箇所あり、うち8箇所が宮崎。1位と2位は有名な西都原古墳群にあり、3位がこの生目古墳群の3号墳なわけです。
下の写真がその3号墳。
わかりにくいですが、前方部から後円部を写しました。下の写真は後円部の頂上。草深くもあるので、ここまで登るのは大変でした。でも部分的に木を伐採しており、行き届いた管理。
すぐ横の5号墳は完全に発掘調査を終え、オリジナルの姿に近づけようと、葺石で復元しています。
前回も書きましたが、わかりやすくていいですね。
展望台もあり。
近くの埋蔵文化センターでは、出土品を展示。多くが国の重要文化財に指定されています。国宝と重文好きの旅吉にはうれしい限り。
その後、宮崎県立図書館で生目古墳群について書かれた本を読みました。10年ほど前に開かれた生目古墳群のシンポジウムをまとめた内容。
旅吉が気になっていたのは、被葬者は誰かという一点に尽きます。
生目古墳群は4世紀半ばから5世紀の築造とされています。天皇を当てはめれば景行天皇から雄略天皇の時代。ヤマト王権の黎明期から拡大期というところでしょうか。
もちろん2人とも実在していたとすれば、の話です。特に景行天皇は架空の人物の可能性50%。個人的見解ですが。
日本書紀では景行天皇が熊襲征伐をしたと記しています。その際、日向の豪族の娘に豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生ませました。そしてこの皇子は日向国造の祖となったとされています。
シンポジウムに参加した1人の学者は、生目古墳群の巨大前方後円墳は、この豊国別皇子の墓ではないかと推測します。
確かに説得力があります。年代も合います。
前方後円墳はヤマト王権の象徴とされています。「私は大王の息子である」と権威を示せば、地域の統治に十分な効果を発揮したことでしょう。迷うことなく墓は前方後円墳にしたと思われます。
実は仁徳天皇の妃の1人も日向から出ています。日向の豪族は大王家の外戚として存在感を示したのでしょう。
神話の舞台が日向になるのも、そのあたりの忖度があるのでは。古事記と日本書紀は「集められるだけの情報を国の内外からかき集め」「天皇家に都合の悪い情報は捨て」「有力者たちに忖度して」出来上がったような気がします。
国の正史である日本書紀は特にその傾向が強かったのではないでしょうか。
中世以前の正史は、そんなものだったのではないでしょうか。編者の心身は疲弊し切ったことと思います。