どうも。旅するおやじ旅生です。
最近恒例となった地元熊本の古代史の舞台巡り。今回は古代山城として知られる鞠智(きくち)城跡に行きました。
城跡があるのは熊本県北部にある山鹿市と菊池市のほぼ境目あたり。遠くに熊本や阿蘇、玉名方面を見渡せる小高い丘の上にあります。遺跡から想定される八角形の建物など、古代の風景が再現されています。
鞠智城は、白村江の戦いで大和政権が唐と新羅の連合軍に大敗した直後、唐が日本に攻め込んで来ることに大変な危機感を持った天智天皇の時代に造られました。
以来、平安時代中期まで機能。ほぼ同時に造られた博多周辺の大野城、基肄(きい)城、水城(みずき)が大陸からの攻撃に備えるための建造物だったのに対し、内陸に位置する鞠智城は、それらをバックアップする貯蔵庫、兵站基地的な働きをしていたと見られています。
また南九州支配の拠点ともなっていたようです。思えば南九州は、飛鳥の昔から江戸幕末に至るまで、一貫して中央政権にとって火種だったことが分かり、面白いですね。いや、飛鳥より数百年前の熊襲、隼人の時代からと言うことができそうです。南九州が中央政権にとって気にせずともいい場所になったのは、たかだか150年前なのです。
古代山城というと防人を思い出します。
主に壱岐、対馬、筑紫に配置され、当初は東国(静岡から関東)の農民から徴兵されました。おそらくはこの鞠智城にも配置されたことでしょう。
徴兵されたら、まず集合地の難波に行かなければなりませんが、食糧や武器など全て自費。3年間(またはそれ以上)の任期が終われば、やはり自費で東国まで帰らねばならず、途中で野垂れ死する兵士も多かったそうです。税の軽減などもなく、あまりの負担の重さに不満が続出。やがて他の地域にも徴兵の枠は広げることで不満の解消を図り、奈良時代半ばからは九州の農民が徴兵されたそうです。
以前、NHKで「タイムスクープハンター」というリアルさを追求したドキュメンタリー風な歴史番組があり、要潤が舞台回し役をしていました。役者たちは時代劇のかつらを被らず本当に月代(さかやき)を剃り、セリフもテーマとなる時代の言葉、というこだわりぶり。その中で、対馬の防人を描く回がありました。防人たちは士気が上がらぬ中、毎日ひたすら玄界灘を監視し続けます。本当にこんな感じだったのだろうな、とちょっと暗澹たる気分になりました。あの番組、もう放映されることはないのでしょうか。「72時間」と同じくらい好きだったのですが。
唐衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
万葉集に収められた代表的な防人の歌の一つです。この子たちは父親が出征した後、どうなったのでしょうか。母親がいないのだから死んでしまったのか、近所の人たちが育ててくれたのか。鞠智城跡にある資料館にこの歌が展示してあり、未開な時代の残酷さを痛感しました。
やがて武士の出現により、防人はなくなったそうです。