旅吉です。
中国地方車中泊旅の続き。
初めて岡山県の吉備路を訪ねた。古代史に興味を持つまで吉備路の魅力が分からずにいた。
でも今だったら分かる。
弥生時代から飛鳥時代にかけ、出雲、吉備、そして九州北部は先進地だった。高い文化を持った渡来人が入り込みやすい場所。ヤマト王権と競い合う力を持つ王たちがこの地にいた。
彼らは最終的に「国譲り神話」が示す通り、ヤマト王権の軍門に下ったのだろうが、出雲大社、吉備津神社、宗像大社、宇佐神宮などのような、全国に名が知られる格式高い神社にその名残を見ることができる。
権力者におもねない史実に忠実な文献があれば、そのあたりのパワーゲームがよくわかるのだろうが、神話などにまぶされると何が何だか分からなくなってしまう。
というわけで、岡山市北区にある吉備津神社へ。備前国と備中国の境目近く。境目というバス停もあった。わかりやすい。
wiki先生の知識をまとめると以下の通り。
古来神体山とされる中山の麓に鎮座。この地を治めたとされる大吉備津彦命が主祭神。
本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の三国への分割により備中国の一宮とされ、分霊が備前国・備後国の一宮(備前:吉備津彦神社、備後:吉備津神社)となったとされる。
足利義満造営とされる本殿は全国唯一の比翼入母屋造(吉備津造)で、拝殿とともに国宝に指定されている。
すごい。かなり重厚で格式の高さが滲み出ている。神社特有の清々しさより、重々しさが前面に出ている。京都でよく見る大規模な仏教寺院を思わせる。
すぐ近くの吉備津彦神社も訪問。上の説明にある通り、分家的な存在なので、規模が小さめでした。
そして総社市の造山古墳へ。墳丘長350mの全国で4番目に大きい前方後円墳。5世紀前半の築造らしいので、倭の五王の時代と重なる。まさに巨大古墳の時代。
上の写真は後円部。戦国時代は砦として使われた形跡あり、とか。この利用のされ方、結構よく聞く。当然、オリジナルの形は失われているようだ。
前方部から後円部を見る。立ち入りが自由な最大の古墳。嬉しい! まだ本格的な調査はされていないようだが、今後、葺石や復元した埴輪を並べるなどするらしい。
前方部の上には小さな社。その前には石棺が。熊本の有明海沿岸から運ばれてきた阿蘇凝灰岩製のわずかにピンク色をした石棺だ。掘り出されてそのまま置かれている。
確かこの石棺、継体天皇の今城塚古墳(大阪府)でも使われていたと聞く。当時の肥後の豪族である火の君が運んだという。大変だったたろうなぁ。
今回は、9月中旬の車中泊がどんなものか確認する旅でもあった。結果だけ書いておくと、大変残暑が厳しい中ではあったが、少し標高高めなら(200m以上)問題なし。山側はこの時期、20℃くらいまで下がるんだよね。
とか言いながら宍道湖畔の道の駅(ほぼゼロm)でもグースカ寝てたが‥。