一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

アウトプットの大切さ

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熊本に住み全国区で活躍する作家のエッセイが地元紙の文化面に載っていた。大変素晴らしい内容だった。

作家は坂口恭平早稲田大学建築学科卒で、小説も書けば、絵も描き、写真集も出すという才能の塊なのだが、だいぶ前から躁鬱病を患っているらしい。同じ心の病を持つ人々の相談に乗り、自殺者をなくそうと、自らの携帯番号を公開している。

多くの相談に共通している悩みが「好奇心がない」「興味がない」と知り、坂口さんは「インプット過多になっている。つまり食べ過ぎている」と分析。解決策として「今度はアウトプットする時である。つまり歌を歌う、絵を描く、土をいじる、料理をする、などなんでもいいからつくればいい」と説いている。

さらに、「大人たちは適当にアウトプットするることができない。テレビやネットでインプットは適当に雑食するのに。今度は適当に思いついたものを片っ端から作ってみよう。それが悩みという食べ過ぎの対処法」と記している。

見事な主張である。

悩みを抱える人はえてして、解決法を見出そうとしてさらに情報を食べ漁る。そして迷走する。疲れ果て、癒しのみを求めて〝消極的な〟行動に出る。温泉に浸かる、好きな食べ物に耽溺する、などなど。そして悩みの根源を幼少期における親子関係の不全さあたりに求める。

それは決して間違いではないだろう。

ただ、鬱々とした思いは続く。坂口さんがこのエッセイで訴えているような〝自分で自分の薬を作る〟ことに至らないだろう。

私がこのブログを始めたのは、50代半ばにも関わらず、ともするとインプット過多の〝自家中毒〟に陥りがちな気質を省みてのことである。さらには、人の何十倍も旅にこだわり、旅に助けられてて生きてきた自分を、さすがにアウトプットしておくべき時期に来たのではないかととも考えた。ちょい大げさだが、事実である。

坂口さんの主張は、50年前には当たり前に幅をきかせていた「本ばかり読まずに、体を動かせ」という言葉とも通底するのかもしれない。しかしこの言葉は乱暴すぎた。自分を否定された気分になった人も多かったのではないか。かくいう私もそうだった。言わば〝言葉足らずの名言〟なのである。

正確に言うなら「君は勉強熱心で読書にも励んでいる。その知識を身体中に根付かせ、生かすために、野山を走り回り、そして何かをつくってみないか。そしたら君の向学心はさらに高まり、精神的にもいいはずだ」といった感じだろうか。

ただ、50年前の社会は今より多様性への理解は薄く、表現も乱暴だったのだろう。「人間が目指す理想像」は今とそう変わらなかったはずだが。

坂口さんは、熊本において超有名というわけではない。知っている人は知っている、というのが正直なところか。ただ今回の記事で私は大ファンになった。これからも、悩みを抱える人々に指針を与えてくれる文章を期待したいものである。

 

 

 

セミの声に温暖化を知る

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夏の旅でいつも気になるのが、旅先でどんなセミが鳴いているか。

熊本では今の時期、クマゼミだけである。ワシャワシャとうるさくてたまらない。うちの庭のミズキの木には特に多くて、午前中などテレビの音が聞こえないくらいだ。

子供の頃は違った。熊本の子供たちにとって、クマゼミは苦労しなければ捕れないセミの王様だった。近くの山にセミ捕りに行くと、アブラゼミばかり捕れてうんざりした。ちなみに熊本市一帯にはミンミンゼミはいなかった。しかしテレビでセミといえばミンミンゼミ。図鑑で見るミンミンゼミは中肉中背でバランスが良く、随分と憧れたものだ。

クマゼミの話に戻るが、おそらく半世紀前、クマゼミの生息北限は今よりかなり南にあったはずだ。大学時代を過ごした東京では、クマゼミの鳴き声を聞いたことがなかった。東京はミンミンゼミオンリー。憧れのセミが鳴く地。やっぱ都会は違うと、とても嬉しかった。

ところが、である。20世紀も終わり近くになった頃、関東でもクマゼミが鳴き出したというニュースを熊本の地で知った。ちょうど吉本の芸人が東京進出を始めた頃で、大阪弁クマゼミのうるささを同一視して茶化されることも多かった。

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今回の山口県を中心とした旅。上の写真は萩市だが、聞こえてくるのはクマゼミだった。70歳前後のガイドの女性に「以前はクマゼミがいなかったのでは?」と聞くと、我が意を得たりとばかりに「そうなんですよ。昔はアブラゼミばかりでした」。やはりと私はにんまり。

ガイドさんの話は続く。「温暖化もあるのでしょうが、聞いた話だと、鑑賞用の南方系の木が多く持ち込まれたことで、一緒にクマゼミの幼虫が持ち込まれたとか」。なるほどなるほど。

「ところが私の実家がある萩市の東側の町には、クマゼミが全くいないんです。不思議です」。そうなんだ。そんなこともあるんだ。

ちなみに瀬戸内海に面した岩国では、ミンミンゼミが幅をきかせていた。西日本の平野部でもこんな場所があるのか、と感心する。

セミは温暖化をよく物語ってくれる。

ちなみにこのガイドさん、前回書いた石州瓦の話を振ると、「よくぞ気付いてくれた」とばかりに話に乗ってきた。「石州瓦は寒さに強いんです。ツルツルしてて雪が滑り落ちる。最近雪が減って、萩市でも10センチも積もれば大混乱ですが、雪の多い山里では、石州瓦はとても大事」だとか。

山陰らしい話である。

長州一帯の建造物は素晴らしい

山口県を中心に広島県島根県をちょこっとだけドライブしてきた。むちろん宿泊あり。でもほとんどが車の中。観光地も少し巡ったが、ほとんど人がいないところばかり。せめてもの感染予防である。あちこちで検温、チェックシートが必要だった。
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目的は、国の重要伝統的建造物群保存地区萩市柳井市を制覇。特に柳井市は初めてなので満足度高し。

まずは毛利の城下町萩市から紹介したい。

上の写真は明倫学舎。藩校跡である。吉田松陰高杉晋作らが出入りした場所。数年前までは明倫小学校として使われ、子供たちの賑やかな声が当たり前に響いていたが、久しぶりに来てみたら幕末の長州をアピールする観光施設になっていた。萩市が全力あげて取り組んでいるのが分かる充実した展示。建物は江戸期ではなく昭和初期の建築だが、趣きがあり、ぜひおすすめ。幕末史に詳しくなれます。敷地内には江戸期の武道場有備館も。

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メインの保存地区は、萩城近くに広がる重臣宅が並んだあたり。自転車で散策。土塀や石垣の路地が続き風情あり。旧幕時代から住んでいる子孫はほぼいないらしいが、千石の大身だった口羽家の住宅には、珍しく今もその子孫が住んでいらっしゃる。上の写真がそれ。川沿いにあり、風が柔らか。建物は国の重要文化財。他の史跡から外れているので、観光客は少ないみたい。案内役のおばちゃんが熱心に説明してくれます。こちらもぜひ。
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瀬戸内海に面した柳井市は保存地区に白壁の蔵造りが並ぶ。こちらは毛利の支藩だった岩国藩の港町として栄えた。金魚ちょうちんが有名で、地区の建物の庇にはたくさん下げられている。色が綺麗で愛らしい。
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コロナが影響したのか、観光客はほとんどおらず。土産物屋のおばちゃんたちは「3ヶ月休業して再開したけど、客は戻りません。でも金魚ちょうちんは今朝、市の職員が新しいのと交換したばかりです」。なるほどね。色鮮やかなはずである。
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ここからが個人的には重要な話。

山口県北部には見事なほど、赤い石州瓦の民家が並んでいる。山口県は低い山々が続くが、その合間に点在する集落は、ほぼすべて石州瓦。家の作りは当然昔ながらの和風建築。古い建物ばかりかというとそうでもなく、よく見ると新しい建物も多い。この建て方が、この地域のスタンダードということか。いやいや文化か。

他県の山里は、古い民家に現代住宅が混在して、よくある農村風景ばかりになりがちだが、山口県の場合は違う。淡い緑の水田の向こう側や深い緑の山裾に赤い屋根が固まっているのは、統一感があり、素晴らしい。

アジアの町並みや集落には、ヨーロッパのような統一感は残念ながら、ない。それどころか香港に代表される混沌とした町並みこそがアジア的とさえ言われる。

そんな中、山口県広島県北部、島根県西部に広がる農村風景は特筆すべきものがある。狭い地域を保存の対象にするのもいいが、この3県にまたがる「石州瓦のある農村風景」は、何かしらに指定するべきではと思ってしまう。幕末史もいいが、こんな魅力も強調してほしい。

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ちなみにこの写真は、2年前訪ねた際の島根県津和野。ここでも石州瓦が目立つが、町が大きくなるほど、石州瓦以外が目立つのは残念である。石州瓦が本領発揮するのは、やはり山里でしょう。

宮本浩次のソロライブ最高

WOWOWエレカシ宮本浩次が、「作業場」という名の倉庫でソロライブを披露した。

感動した。熱くなった。酒がうまかった。

宮本の声の調子は最高。長くライブやってなかったから、しっかり休めたのだろう。

実はあまり期待はしてなかった。なぜなら、宮本はギターが下手という先入観があった。それが足を引っ張るのではないかと思い込んでいた。

しかし、いい意味で裏切られた。宮本はギターが下手ではない。

フレーズを弾く時には確かにもたつき感があったが、ストロークはダイナミックでパワフル。エレキ、アコギに関係なく、ほぼすべてをバレーコードでやるというのが、さらにすごい。変なところに感心するなぁ、と思われるかもしれないが、相当な指の力と持続力が必要なはずである。
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上の写真は、TV画面を撮影したもの。

曲はソロアルバム「宮本、独歩。」の収録曲が半分以上を占めた。「獣ゆく細道」は椎名林檎なしでも十分に魅力的。あの変則的なコード進行ももたつくことなく引き通し、歌が疎かになることもなし。すばらし。

「孤独な旅人」や「赤い薔薇」などエレカシ の比較的初期の曲も歌ってくれた。もう、嬉しくてたまらない。やはりエレカシは宮本の歌声が魅力の8割方なんだな、と実感した。

あー、エレカシファンと語らいたい。この感動を共有したい。

 

日帰りアマルフィの旅

せっかくイタリアの写真を久々発見したので、ローマからアマルフィへの日帰り旅行を紹介したい。

ナポリのさらに先、ベスビオ山の裏側にあるサレルノまで特急列車で約3時間。バスに乗り換え、地中海が美しいものの、あまりにクネクネで車酔いする海外沿いの道を1時間あまり。「もうだめ、これ以上乗ってたら吐く」というころアマルフィに着いた。

本当に美しい町である。お世辞抜きに「こんなきれいな場所があるのか」と感動する。
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なかなかアマルフィの全貌を写真に収めるのは難しい。沖合のクルーズ船あたりから撮るとうまく撮れるのだろうが、町並みがあまりに海岸線に迫り過ぎてて、堤防の突端から撮ったくらいでは魅力は伝わらない。
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実に小さな町である。明るさ、賑やかさ、歴史、華やかさがギュッと凝縮されている。イタリアの宝石と言っていい。ちょっとした広場には水がこんこんと湧いていた。ローマをはじめとしてイタリアは水がきれいだ。
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食事をしていたら、隣の席の青年が日本語で話かけてきた。どうも日本好きなちょっとオタク趣味の人らしく、独学で日本語をマスターしたらしい。最近こんなタイプの白人が多い。うれしい限りである。
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ちょっと歩けば、町外れ。急峻な石の階段を昇っていたら、またも、日本語で話しかけられた。インテリ風な初老の男性。日本の大学で教鞭をとっていたらしい。それにしても2人のイタリア人から日本語で話かけられるとは。
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赤いベスパが止めてあった。さりげないがカッコいい。イタリアらしい。浪人生の頃、私はこのベスパに似たジェンマというスクーターを乗り回していた。あの頃は、タクト、ジェンマなどスクーターが大人気だったなぁ。明るい80年代の初頭。笑っていいとも、が始まった頃だ。こんな災害大国になるなんて、想像もしてなかった。
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2、3時間ほどアマルフィで過ごして、またクネクネ道をバスでサレルノへ。帰りは酔わなかった。バスの中でおじさんたちの喧嘩があった。ちょっとした殴り合いになり、流血騒動に。車酔いどころではなかった。

ローマへの特急はコンパートメント方式だった。私はこの方式が苦手。息が詰まる。でも英語が得意な大学生の娘たちは大喜び。日本好きのイタリア人おじさん、ルーマニア出身の女性と盛り上がっていた。私は人見知りしてしまい、なんとなく無口になった帰路であった。長い3時間だった。

それにしても、ナポリは通過しただけで観光する時間がなかっのは残念だった。

夜、8時過ぎにはローマ着。

イタリアの崖の上の町

夕べ、NHKで欧州各地にある崖の上の町を特集していた。予想通り、7年前に訪れたイタリアのチビタが紹介された。「イタリアの丘の町一つとスイス一国を交換してもいい」と言った作家がいたというが、それも納得させる魅惑の地である。

番組に触発されて、久しぶりに以前の写真データを見てみたら、この時のイタリア旅行の写真が出てきた。せっかくなのでその際に撮影していた写真を使ってチビタの魅力を取り上げてみたい。

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ローマ帝国以前からエルトリア人が住んでいたらしい。もともとはもっと広い場所だったようだが、次第に雨や地震で周囲が侵食されて谷になり、今の形になったとか。

ローマのテルミニ駅から列車と日に数本のバスを使ってチビタへ。日本人は我々家族だけ。イタリア中央部らしい、草原と小さな集落が続く魅力的な道筋である。

 チビタ一帯の地形は阿蘇カルデラに似ている。チビタは中央火口丘の位置にあたり、谷を挟んでぐるりとチビタを取り囲む外輪山のような部分に、チビタの〝本村〟がある。

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バス停から10分も歩けば、チビタが見えてくる。建物も土の色も赤褐色。形は天空の城ラピュタによく似ている。異様と言えば異様である。丘の上に続く、急勾配の歩道を歩き門をくぐれば、チビタの集落。
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「死にゆく町」と表現した作家もいたとか。人口は10人前後らしいが、小さなレストランやお土産屋さんがぽつぽつとある。中央には教会と広場。もちろん、他のイタリアの町に比べれば、かなり小さめの広場だ。

広場の横のベンチに座っていたら、小型犬が私を見てやたらと吠えだした。それも延々と。静かな町なので、みんな何事かとこちらを見ている。笑えるくらいに吠えられた。
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数十軒の家々が広がり、その間には迷路のような路地。それにしてもこれらの建物、いったいいつ頃建てられたのだろうか。私の勘では、平均して500年くらい前の建物だと思うのだが。ローマ時代だと、もっと〝遺跡感〟が強いはすである。かと言って、150年ほど前の都市再開発で現在の形になったパリの建物と比べれば、確実に古い。ただ壁の材質にもよるので、なんとも言えないが。
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イタリアはこの糸杉が町並みにアクセントを加える。青空と褐色の壁によく映える。ゴッホの絵のようである。

海外旅行で一番印象に残ったのは、私の場合、ダントツでイタリアだ。特に田舎の小さな町は最高である。この時の旅行では、ローマのテルミニ駅近くの二つ星ホテルを拠点に、日帰りでアマルフィにも行った。とにかく感動の連続だった。

エレキギターの練習を始めた

最近、というかここ数日、エレキギターの練習を始めた。

実は中学時代にアコースティックギターを始め、友人3人と、かぐや姫だのさだまさしだのアリスだの弾いていた。自慢になるが私のギターの腕はなかなかだったと思う。

通常であれば、そのままエレキギターの道に踏み込むところだが、なぜだか高校に入ってまたもフォークギターを購入。Sヤイリという通好みのギターだったが、なんとなく相性が合わなかったな、あのギター。

いつかエレキギターを買わねば、と常に気になりながらも、東京での大学時代は何とカントリーの一派であるブルーグラスにはまり、フラットマンドリン浸りの4年間を送る。

銀座のライブハウスに出演していたのが自慢だ。社会人になって、時折そのことを周りに漏らすと結構驚かれたりもしたが、どういうわけか、誰もがその事実をすぐに忘れる。だから何度言っても驚かれる。どうしても私の場合、「旅好き、お城好きな人」という面だけが先行して印象に残るのだろう。悲しきかな我が人生、である。

大学を卒業して以降、あっさりと音楽から離れた。当時のサークル仲間はほとんどが今も音楽を続けているのに。バンド仲があまり良くなかったからか、練習のし過ぎで音楽に飽きたのか、未だによく分からない。

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で、本題に入るが、このYAMAHAエレキギター、実は私が買ったのではない。二十歳くらいの時、中学時代のギター仲間から借りて、そのまま借りっぱなしなのである。その友人とはその後、音信不通になった。あまり熱心に練習する奴ではなかったので、ギターのこと、もう忘れてしまっているかもしれない。今頃どこにいるのだろうか。

以来35年間ほど、このギターは私の実家の倉庫に眠っていた。2年ほど前、年老いた母が「そういえばこんなのが倉庫にあった。あんたのだろ? 持って帰りなっせ」とホコリだらけのエレキギターを渡したのだった。

「そういえばエレキに憧れた時期があったな」と、早速安めのアンプを買い、弦を張り直して、入門書まで購入。「アコースティックを極めた俺が入門書か」と一瞬思うが、イヤイヤ謙虚な気持ちが一番、と練習を開始。ところが時を同じくして左肘を痛めてしまい、あっという間にエレキギターは部屋のお飾りになってしまう。

それから2年。いつしか左肘の痛みも軽減(中高年の体の痛みはいつもこんな感じで治る)。10日ほど前から、今度は入門書ではなく、YouTubeで初心者向けエレキギター講座を見て練習している。

改めて感じているのは、エレキギターとアコースティックの違い。アコースティック一本だった私は、硬めのピックを使った強めのピッキングを信条としていたが、エレキでそれをやるとうまくいかない。もっとずっと優しく繊細に弾いてあげないと、いい感じの音にならないのだ。ジャカジャカではだめなのだ、

取り敢えず、クラプトンやビートルズのギターフレーズをいくつか身につけて、まずは満足。楽器の上達は、まず「俺ってすげえ」と感じることから始まると思っている。

アコースティック時代にはあまり考えなかったコードトーンだの、ペンタトニックスケールだの、基本練習にも熱中している。慣れないので手が疲れるが。果たして思う存分、アドリブを弾ける日は来るのだろうか。それにしても今はネットがあるから、楽器の練習も効率的である。