一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

津山と尾道で心を浄化された話

一人旅に出る時、割とよく考えることがある。「さあ、この旅の間に、今後の人生について決着をつけよう」。笑えるが、本気なのだ。

こんな時、大体において仕事が行き詰まり、会社が嫌になり、短い休みをとって逃げるように旅に出ているケースがほとんどだ。

「さていつ辞めるか」「退職の話、まず誰に持ち掛けるか」「辞めた後、どんな暮らしをするか」。一人旅はわりと関西方面が多いので、トンネルと田んぼばかりが続く山陽新幹線の車窓で頬杖をつき、とめどなく考える。

今から5年ほど前、津山、岡山、尾道を訪ねた時もそうだった。

新大阪駅行きの「みずほ」に熊本駅で乗車。2時間半もすると岡山駅に到着する。当然、その2時間半の間、仕事のことなど鬱々考えていたに違いない。それに飽きると、「せっかくだから俳句を作っておかないと」と焦ったように五七五を無理やり捻り出そうとするが、大体において、こんな時にいい俳句はできない。

f:id:noaema1963:20200904205355j:image

岡山に来ると、いつも晴れている。「岡山とは相性がいいんだな」と以前は思っていたが、そうではなく実際に晴れの天気が多い地方なのだと40歳を過ぎた頃知った。私とした事が。

この日も岡山は晴れ。新幹線ホームを吹き渡る11月の風がとても気持ちよかった。

在来線に乗り換えて津山を目指す。なぜ津山か。はっきり覚えていないが、おそらく、映画「男はつらいよ」の事実上の最終作品である第48作「寅次郎 紅の花」のロケ地だったからだろう。さくらの息子満男(吉岡秀隆)が泉ちゃん(後藤久美子)の結婚式をメチャクチャにするのだが、その舞台が津山市だった。


f:id:noaema1963:20200904205420j:image

川沿いを各駅停車の列車で走ること1時間あまり。津山駅についた。町の雰囲気は、先日水害に遭った熊本の人吉市に似ている。

レンタサイクルで走ると、地方都市におなじみのシャッター商店街があった。人の姿はほとんどない分、商店街に流れる音楽が妙に大きく聞こえて、寂しさを倍増させる。でも私はこの侘しいシャッター商店街になぜかとても惹かれる。というか落ち着く。景色のいい場所に来た時、肩の力がふっと抜けるのに似ている。もともと古い建物や古い町並みが好きなので、その延長線上の感覚なのだろう。妻には「変わってる」と言われるが。
f:id:noaema1963:20200904205358j:image

津山城跡の天守台から眺めた鳥取方面。いい感じの石垣だ。
f:id:noaema1963:20200904205415j:image

この日は城内でお祭りをやっていて、名物のホルモンうどんの屋台がたくさん出ていた。賑やかな舞台も。ただ何をやっていたのか全く覚えていない。祭り会場のすぐ横に資料館みたいなのがあった。熱心に見ていたら、ガイドのおじさんが寄ってきて、詳しく説明してくれた。私にとっての旅の醍醐味は、グルメなどではなく、古い建物やかび臭い資料館巡りなのである。そんな時、私の幸福度はぐんと上がっている。
f:id:noaema1963:20200904205411j:image

寅さんロケ地の標柱あり。同じく岡山県高梁市でもロケ地の標柱を見た事がある。

岡山県は寅さんだけではなく、横溝正史作品の舞台になる事が多い。八つ墓村悪魔の手毬唄、獄門島、いずれも岡山県である。
f:id:noaema1963:20200904205424j:image

観光地図を見ながらたどり着いた小道。結婚式場に向かう泉ちゃんたちの車列を、逆方向から来た満男の車が阻止した箇所。この辺りにはいわゆる「旧市街」のような古い町並みが残り、箕作阮甫旧宅など江戸期からの建物なども数多い。今調べたら、この一帯、文化庁重要伝統的建造物群保存地区の一つだった。ちなみに岡山では他に、倉敷市倉敷川畔、高梁市の吹屋地区が指定されている。
f:id:noaema1963:20200904205406j:image

3〜4時間、津山を巡った後、バスで岡山市へ戻る。バス代はなんと500円。安い。一番前の席でゆったり優雅に風景を楽しんだ。

岡山駅から歩いて岡山城や後楽園があるエリアへ。上の写真を撮った場所には、この1〜2年前にも出張のついでに来た。私はしばしば、以前訪ねた場所を再訪して思い出に浸る事多し。思い出好きにも我ながら呆れるばかりである。
f:id:noaema1963:20200904205429j:image

2度目の後楽園。八つ橋。
f:id:noaema1963:20200904205402j:image

立派な松の木も多い。池田の殿様たちはなかなかの風流人だったのだろう。後楽園は熊本の水前寺成趣園より立派だが、金沢の兼六園よりは平板な感じがする。
f:id:noaema1963:20200904205433j:image

岡山から尾道に向かい、駅近くのホテルで宿泊。翌日、迷路のような小道が続く尾道の山際を散策した。水道の向こうの島からは造船所の「ガンガンガン」という賑やかな金属音が響き渡る。港町ならではの朝である。

小学校では教育研修会みたいなのをやっていて、あちこちからやってきた教師たちが次々に学校の中に入っていく。高台からそうした景色をぼんやり見ていて、「働く人たちの姿ってかっこいいな」とつい思ってしまった。自分には珍しい感情。旅を通して浄化された部分があったのかもしれない。
f:id:noaema1963:20200904205352j:image

尾道のアーケード街を歩いていたら、30年ほど前、妻と入った喫茶店がまだ残っていた。マスク姿の目の綺麗なウエイトレスがいたので、ついつい俳句を作る。

 

冬の街眉美しき娘おり

 

尾道は俳句を作りたくなる町なのである。そして俳句を作ると、心はさらに浄化された感じがするのだ。

 

 

ロードムービーのような直木賞受賞作「少年と犬」

f:id:noaema1963:20200901204517p:image

久しぶりに一気読みした。つい先日、直木賞を受賞した馳星周の「少年と犬」。直木賞だから読んだわけではなく、私が住む熊本も舞台になっていると知って、読みたくなった。

あまり詳しく書くとネタバレになってしまうので、さらっと書くが、犬が好きな人、旅が好きな人、時の流れを感じるのが好きな人、孤独を感じながら生きている人、には是非読んでほしい一冊。小説だけどロードムービー。もしかしたら近いうちに映画化されるかもしれない。

うちには今、二匹のトイプードルがいる。とんでもなく可愛いく、賢いが、以前飼っていたゴールデンレトリバーの方が「寄り添ってくれてる感」は強かった。この小説を読んでいて、ついつい5年前に死んでしまったゴールデンを思い出してしまった。

それにしてもゴールデンレトリバー、最近全く目にすることがなくなった。

子供の時によく見たチン、スピッツ、コリーなど全然見ることがないし、ミニチュアダックスフントさえ、目にする機会が減った。

主人公の多聞という犬はシェパードと和犬の雑種。

涙ボロボロ、頭がぼーっとなるくらい泣けます。小難しくもなく、何か新たな真理を掴めるわけではないが、おすすめです。

そして夕陽に照らされた東尋坊へ

福井県の旅、後半。

いつも疑問に思うのだが、なぜ明治新政府は、越前と若狭を無理やり合わせた形で福井県にしたのだろう。さらに言えば、なぜ敦賀市は越前に含まれるのか。気比神宮が越前の一宮と知った時は驚いた。てっきり若狭と思っていた。そう勘違いするのは私だけか。

f:id:noaema1963:20200824201949j:image

敦賀は、県都福井市のグループからすると、大きな山塊で完全にブロックされているように見えてしまう。地元民からすると「いらぬ世話」なのだろうか。

ただ、この山塊のおかげで、戦国大名朝倉家は畿内の軍勢から守られた部分があるのかもしれない。また、山がそのまま海に落ち込み、敦賀という天然の良港ができた。なんとも興味がわく場所である。そういえば50年ほど前、この山々を抜ける北陸トンネルで列車火災があったのを思い出す。

大本山永平寺へとバスは行く

前回の続きで、朝倉の城下町一乗谷からまたバスに乗り、今度は永平寺を目指す。意外と距離は短かった。

 

noaema1963.hatenablog.com

 永平寺一帯はすべて傾斜地になっている。

境内はうっそうとした木々に覆われ、その合間から寺の建物群が顔を出している。新緑がみずみずしい。修行中の若い僧侶がたくさんいる。さすがは曹洞宗大本山である。

f:id:noaema1963:20200824193817j:image

f:id:noaema1963:20200824193824j:image
f:id:noaema1963:20200824193821j:image

話はそれるが、以前テレビで福井の女性が標準語で話すシーンを見た(おそらくふだんは関西系の方言なのだろうが)。その話し方が熊本の人にそっくりなのに驚いた。初めは熊本出身の女性なのかと思った。しかし、それ以外の人たちも一緒なのだ。抑揚のない、ぶっきらぼうな標準語。

熊本はアクセントがなく、「崩壊アクセント」とか「無アクセント」と区分される。そのアクセントで標準語を話すと、北関東から南東北の人の話し方に似る。この地域もアクセントがないからだ。

一方、東京弁は関西弁並みにアクセントの上がり下がりが強い。だから熊本の人間からすると、東京弁は歌を歌うように話さなくてはならない。相当勇気がいる。恥ずかしさが先に立つ。音感が悪い熊本出身者はしばしば「え、東北出身だった?」と間違われる。東京人には分からないだろう地方出身者の言葉の苦労は、想像を絶するものがある。

ただ、最近の若者はあまり方言を話さないので、苦もなく東京弁を話す。うちの娘2人も子供の時から一切、熊本弁を話さない。別にそう教育した覚えもないが。なぜなのだろう。

話がそれ始めたが、福井市一帯も熊本市一帯と同じく無アクセント地帯だ。それを知った時、「やはり」と膝をたたいたものである。ちなみに下の図はWikipediaに掲載されていたアクセントの分布図。引用させていただきました。

f:id:noaema1963:20200824205630p:image
f:id:noaema1963:20200824193850j:image
f:id:noaema1963:20200824193843j:image
f:id:noaema1963:20200824193831j:image

またバスに乗り、丸岡城へ。1時間ほど揺られた。観光地から観光地へ。結構乗客は多かった。

丸岡城は現存12天守の一つ。北陸ではここだけである。平日にもかかわらず、結構な数のお城ファンで賑わっていた。

最近の研究によると今の建物は江戸初期の寛永年間のものらしい。ただ、戦後まもなく発生した福井地震天守閣は倒壊。しかし崩れた部材を使って数年後に再建したという。説明板を読んで初めて知った。コンクリート造りの城が数多く復元されていた時代にも関わらず、丸岡城のこの取り組みには感心させられる。

熊本地震で被災した熊本城も、石垣のひとつひとつまで元通りにする復元作業が延々と続いている。ナチスに破壊されたワルシャワの町並みも数十年かけて元通りににしたという。建物、町並みへのこの思い、大切なことだと思う。頭が下がる。

カップルだらけの東尋坊

日がだいぶ西に傾いてきた。最終目的地の東尋坊へバスで向かう。
f:id:noaema1963:20200824193839j:image
f:id:noaema1963:20200824193828j:image
f:id:noaema1963:20200824193836j:image

芦原温泉を通過する頃、乗客は私のほか地元のおばちゃんが一人二人。やがてバスは日本海へ。旅情がウズウズと湧いてくる。

冬場は風雪がかなり強い場所なのだろう。確かこの年の冬、福井は豪雪に見舞われた。九州の人間は北国への憧れが強い。無い物ねだりである。ただ、ここ最近の気象を見ていると、南国より北国の方が安全のような気がしている。

東尋坊に到着。バス停から5分ほど歩くと崖の上に出た。思ったより荒々しい感じがしない。どちらかと言うと雅な空気さえ漂うくらい。もっと高さがあり、ドッシャーンと荒波が打ち寄せる危険と隣り合わせな名所かと思っていた。危険度から言えば、天草西海岸の勝ちだろう。

それでも夕陽に照らされた柱状節理は陰影がはっきりして見事だ。おそらくは日本を代表する夕陽スポットなのだろう。あちこちで若い男女が寄り添っている。訳ありな感じの中年カップルも。それをちらちらと見る一人旅のおやじ。いかんなぁと反省しながら帰途についた。

福井で故郷の歴史をひもとく

3年前の5月に旅した北陸の中から福井を紹介する。そして地元熊本の歴史などもつらつら考えたい。今日はその前半。

前日に名古屋小牧空港から列車を乗り継いだ。滋賀県長浜市を少しだけ観光して、敦賀市へ。気比神社で御朱印もらい、夜には福井市入り。

福井県と言えば永平寺あたりが有名だが、熊本に住んでいるとあまり縁のない土地だ。あえて繋がりを求めれば、幕末の論客横井小楠の存在だろうか。

f:id:noaema1963:20200821225603j:image

朝、福井市街地のホテルを出て、足羽川のあたりへブラブラ歩く。横井小楠が身を寄せた場所の記念碑を見るためである。

幕末史ではあまり注目を集めることはないが、熊本細川藩の藩士であった横井小楠文久3年、政事総裁職を務めた松平春嶽の政治顧問となり、しばらくこの地に住んでいる。

ただ小楠は熊本では冷遇されていた。藩校時習館で塾長まで上り詰めた秀才だったが、徹底して相手をやり込める舌鋒や酒に絡んだ失敗など、藩の主流派に何かと疎まれる存在だったようである。福井に送り出すのもいろいろと気をもんだことだろう。

それでも小楠は全国的に見ると、勝海舟坂本龍馬からは高い評価を受け、龍馬は2度にわたり熊本の小楠宅を訪れている。維新後は高齢にもかかわらず明治新政府に出仕。しかし明治2年、京都で暗殺された。

熊本における小楠の一派は実学党と呼ばれる派閥をつくり、廃藩置県後には一時期、県政の舵取りまで行った。

その流れからは徳富蘇峰らを輩出。蘇峰は明治半ばに「国民之友」や「国民新聞」を発刊し、昭和半ばまで、毀誉褒貶あるもののジャーナリストとして重きをおいた。また、蘇峰をはじめ実学党の関係者は創立時の同志社に深く関わった。NHK大河ドラマ「八重の桜」の後半部分にたくさん出てきた熊本士族の若者らがこれだ。

話はそれるが、熊本の幕末史にあまり際立ったものはない。

小楠らが率いた実学党は、学校党と呼ばれる藩の主流派と対立。これに勤王党も政争に加わった格好になり、ゴタゴタ続きの中、結局は「肥後は維新のバスに乗り遅れた」という見方が強い。そんな幕末の熊本藩で唯一名前が知れているのが横井小楠なのである。

話はさらにそれるが、江戸時代の熊本の城下町には現在の小学校校区レベルの広さで「連」という若い侍たちの組織があり、良くも悪くもなにかと競い合った。当然、政治的な色分けもあったらしい。実学党の連、学校党の連、といった具合である。

現在、熊本市は他地域からすると珍しいくらい出身高校にこだわるが、どこか連の競い合いと似ていなくもない。社会人の会話で「ところで高校はどちらのご出身で?」となる頻度は高く、同窓と知るや、一気に座が和らぐといった感じである。個人的には嫌な風習だ。

話を福井に戻す。徳川家の血筋だった松平家福井藩は幕末、どうだったのだろう。春嶽は横井小楠の意見を藩政に大きく反映させたと聞く。福井藩明治維新にどう絡んだのか、実はほとんど知らない。地元熊本の郷土史薩長中心の幕末史だけではなく、全国各藩の幕末史を広く知っておかないとなぁと思う。労力かかりそうですが。

小楠の記念碑を見た後、柴田勝家の居城だった北之庄城跡へ。戦国時代の城跡には珍しく平地のど真ん中にあり、意外な感じ。遺構の一部が見られるので考古学ファンにはちょうどよろしいかと。すぐ横には柴田神社。

この城で秀吉軍に攻め立てられた勝家は、妻のお市の方と自刃した。戦国ファンには思い入れの深い場所と言えそう。

ちなみに熊本の戦国ヒーローは加藤清正になるだろう。勝家と同様、猛将のイメージが強い。何しろ熊本城を建てた人。熊本での治世はわすが20年ほどだが、とにかくいろんな逸話が多過ぎて、「ほんまかいな」と言いたくなる時がある。

清正の死後、講談等で史実がどんどん膨らんだ部分もあるようだ。話の筋に関係なく芝居の途中で唐突に清正が登場すると、観客は大喜びだったという話も残る。それほど特殊なキャラクターだったのだろう。日蓮宗の熱心な信者だったので、その方面で培われた人物像もあるのではないか。

ちなみに熊本で「俺は清正は好かん」と言う人は見たことがない。もちろんその特殊性については違和感を覚える人も多いのかもしれないが。何しろ一人一党の頑固者揃いの地なのだから、そう感じないはずがない。

駅の東口にある観光案内所に到着。一乗谷永平寺丸岡城東尋坊をめぐることができるか聞くと、結構な数のバス便でつながっていることを知る。私の絶対地理感を駆使してスケジュールを立てたところ、夕方には東尋坊で夕日を見れることが判明。「やったね」。旅好きはその計画ができただけでも大満足である。
f:id:noaema1963:20200821225551j:image
f:id:noaema1963:20200821225607j:image
f:id:noaema1963:20200821225547j:image

上の3枚の写真は一乗谷柴田勝家以前の戦国大名朝倉氏の城下町。かなり手をかけて再現している。福井駅からバスで30分ほどの中山間地にある。

現在、放映休止となっているNHK大河ドラマ麒麟がくる」ではユースケ・サンタマリア朝倉義景を演じている。キャスティングとしてはぴったりではないだろうか。どこかヘタレの雰囲気が出ていて、貴族化しつつある戦国大名という感じがする。

江戸時代の町並みは至る所で再現されているが、さすがに中世の町並み再現というのは珍しい。「ここに細川幽斎明智光秀が滞在したのか」と感慨深いものがあった。

 

後半へ続く。

霊巌洞で宮本武蔵の息遣いを感じる

剣豪の宮本武蔵が晩年、五輪書を書いた場所とされる霊巌洞を30年数年ぶりに訪ねた。

熊本市の北西にそびえる金峰山の西麓にある。

前回訪ねたのは、はっきりと記憶していないが、おそらく社会人になったばかりの頃だったのだろう。薄らネガティブな色合いの記憶になっているところを見ると、あまり満足いく精神状態の時ではなかったのだろう。やたらと記憶を感情で塗り重ねるから、我ながら困ったものである。

ただ、私がどんなにネガティブな記憶に溺れようが、右往左往した日々を過ごそうが、霊巌洞は何も変わることなく、30数年の時がすぎたようである。確か前回来た時もツクツクボウシの鳴き声に包まれていたような気がする。

いや、一つ変化があった。4年前の熊本地震霊巌洞のすぐ横に五百羅漢と呼ばれるたくさんの石仏たちがいるが、地震の影響で崩壊したり、首が無くなったりした石仏もだいぶあったようである。

f:id:noaema1963:20200816191949j:image

雲巌禅寺の本堂の前から歩いて数分。これが下から見上げた霊巌洞

みなさんご存知と思うが、宮本武蔵は戦国時代〜江戸時代の剣豪。概略はWikipediaから。

「江戸時代初期の剣術家兵法家芸術家二刀を用いる二天一流兵法の開祖。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや巌流島での佐々木小次郎との決闘が有名で、後世、演劇、小説、様々な映像作品の題材になっている。特に吉川英治の小説が有名であるが史実と異なった創作が多いことに注意する必要がある。外国語にも翻訳され出版されている自著『五輪書』には十三歳から二九歳までの六十余度の勝負に無敗と記載[注釈 1]がある。国の重要文化財に指定された『鵜図』『枯木鳴鵙図』『紅梅鳩図』をはじめ『正面達磨図』『盧葉達磨図』『盧雁図屏風』『野馬図』など水墨画・鞍・木刀などの工芸品が各地の美術館に収蔵されている」

武蔵は、加藤家の改易後に熊本城主となった細川家と縁が深く、特に武道への関心が高かった初代藩主忠利に請われ、客分として晩年を熊本城下で過ごしている。それゆえ熊本には武蔵ゆかりの地がいくつかあり、島田美術館等に美術品や工芸品が所蔵されている。霊巌洞は武蔵を最も身近に感じられる場所なのである。f:id:noaema1963:20200816191941j:image

この石段を老境にある武蔵は一段一段登ったのだろう。意外と急。

f:id:noaema1963:20200816191945j:image

霊巌洞の中には祠と大きな岩が一つ。蝉時雨が余計に静けさを感じさせる。

ノートには訪問者の名前と住所。半分以上が県外からだった。コロナの影響で「県境を越える移動の自粛」が呼び掛ける向きもあるが、やはり4〜5月のようには行かないようである。

f:id:noaema1963:20200816191844j:image
f:id:noaema1963:20200816191954j:image

静まりかえった霊巌洞の中にいると、400年の時を隔てて宮本武蔵の息遣いが感じられるようだ。「間違いなく武蔵はここにいた。ここに座っていた」。そう思わずにはいられない。同行してくれた妻は「もう出よう。何か怖い」。確かにそんな感覚に襲われる。

40代の半ば頃(すでに10年ほど前になる)、しばらく居合を習いに行ったことがあった。武士道にどっぷりとはまり込み、時代小説、歴史小説を読み漁っていた頃だ。ちなみに私の好きな歴史上の偉人は‥誰なのだろう。以前は西郷隆盛だったが。今はすぐに浮かばない。

居合の練習は意外とハードで、3年ほどで二段まで取得したが、仕事の忙しさを理由に練習から遠去ってしまい、結局やめてしまった。

その時の先生が武蔵の二天一流の継承もやっており、時折、その練習風景を見学することもあったが、私は居合の練習だけで精一杯であった。今も模擬刀や練習用の袴を大事にしまい込んでいる。

当時から思っていたが、日本刀は意外なほど重い。二本を自在に操るなど、戦国生き残りたちの膂力の強さに驚くばかりである。ちなみに時代劇用の刀は相当軽く作ってあるはずだ。

それにしてもその頃の練習で一緒だった人々は、今も居合道を極めているのだろうか。一度、練習場だった体育館をこっそり覗きに行ってみたい。

f:id:noaema1963:20200816191937j:image

五百羅漢。夏の強い光に照らされ、陰影の深さが際立つ。秋から冬にかけて見る方が、ずっと優しげに見えるのだろう。

 

その後、近くのカフェ「ココペリ」で昼食。古民家を改造した雑貨も取り扱っている店。もちろん妻の希望である。若い人たちだけでなく、中高齢者の客層もあり、ゆっくりできた。私はベジタブルカレーを食べた。味もボリュームも合格点をあげたい。

霊巌洞 

所在地 熊本市西区松尾町平山589(雲巌禅寺内) 駐車場あり

見学料 大人300円

電話番号 096ー329ー8854

8年間大切にしたいロードバイクを先輩に譲った

f:id:noaema1963:20200814215455j:image

とうとう、8年間乗り続けたロードバイクを会社の先輩に譲った。

意外なほどの欠落感。

この1月、コロナの影響で福岡空港の玄関に着いた段階で北京旅行をキャンセルした時のように、心にポッカリと穴が開いた。

上の写真を見てもらうと分かるが、白のトレック。ずっと家の中に置いていたから、あまり古びてない。

でも購入直後から感じていた「ちょっとばかり自分には大きいなぁ」という違和感は最後まで拭い去れず、なんとなく乗りこなせないまま別れの日を迎えたのである。

会社の先輩は「未練があるなら、無理しなくていいぞ」と言ってくれたが、「いえ最近は、昨年買ったマウンテンバイクに乗ってて、この自転車にはもうほとんど乗ることもないし」と寂しい表情をちょっと浮かべたりした。このあたりの自分の気質に我ながら呆れてしまう。

しかし、先輩が乗って去っていくトレックを見るのは、さすがに辛いものがあった。人買いに連れ去られる娘を見るような感じであった。

 

 

夏目漱石が4年あまり住んだ熊本

f:id:noaema1963:20200809142124j:image

夏目漱石ゆかりの地で思い出されるのは、どこだろうか? たぶん松山いう人が多いと思う。代表作の一つ「坊っちゃん」が松山を舞台にしているのが、大きく影響したようだ。

しかしあまり知られていないようだが、漱石は1年間松山で暮らした後、私が在住する熊本市に旧制五高の教授として4年間住んだ。熊本は実は、松山以上に漱石ゆかりの地なのである。

今日は熊本に3軒も残っている漱石旧居を紹介したい。

漱石は引っ越し魔だった。なんと熊本で5回も引っ越している。今でも残るのが3番目、5番目、6番目に住んだ家である。漱石が熊本にいたのは明治29年(1894年)から4年間なので、いずれも築120年以上の歴史的建造物。それだけでも十分な価値あり。空襲にも水害にも熊本地震にもよくぞ耐えた。

現在見学できるのは3番目と5番目。第3旧居はもともとあった場所から2キロほど東の水前寺公園わきの住宅街の中にひっそりと残っている。

f:id:noaema1963:20200809142136j:image

中には漱石の写真や資料が展示してある。入場無料。場所が分かりにくいせいか、訪れる人は決して多くはなさそう。

f:id:noaema1963:20200809173903j:image

漱石は熊本に来て3ヶ月後、鏡子夫人と結婚。熊本は新婚生活を送った地である。新婚旅行は福岡。すでに開通していた汽車や人力車を使い、箱崎宮香椎宮太宰府天満宮など神社仏閣巡りをして、二日市温泉船小屋温泉に宿泊している。

いい家の出である鏡子夫人(漱石もまあまあの家の出だが)は風呂場の不衛生さに閉口したことを後年、関係者に語っている。鏡子夫人は熊本時代、精神的に不安定だったようで、自宅近く(この家は残っていない)の白川で入水自殺を図るが、漁師に助けられる。気難し屋の漱石と暮らすのも大変だったことだろう。その辺りのことは鏡子夫人の語りをまとめた「漱石の思い出」を読むとよく分かる。
f:id:noaema1963:20200809173832j:image

熊本時代の漱石は、当時の人としては珍しく、たくさんの旅をしている。新婚旅行のほかにも、同僚と何度となく温泉旅行にも行っている。軍事演習を兼ねた五高の修学旅行では、天草から島原半島を巡ったり、県北の菊池方面に行ったり。旅先で現地の顔役たちが出迎えてくれた様子が、五高記念館(熊本大学内にあるが、地震被災で修復中)の資料に書かれている。

草枕」「二百十日」は、熊本時代の旅を題材に後年書いた小説。ただ「坊っちゃん」に比べて難解なので、熊本=漱石とアピールするに至らなかったようだ。

f:id:noaema1963:20200809142129j:image

上の写真は第5旧居。ここは熊本地震で一部被災して改修中だ。旧城下町の一角に残り、漱石の旧居としては熊本で一番有名である。ここで長女筆子が生まれ、最も長い期間暮らしている。

漱石はこの時代、まだ小説は書いていないが、友人正岡子規の影響で始めた俳句は熱心に取り組んでいる。俳人漱石への評価は様々であり、散文の評価がずっと高いようだが、有名な句もたくさん作っている。

 

菫ほどな小さき人に生まれたし

 

熊本時代の作品で私が一番推すのがこの作品。おそらくこの句を好きな人は結構多いのではないか。
f:id:noaema1963:20200809142133j:image

上の写真は第6旧居。藤崎八幡宮近くの住宅街にある。中は見学できないが、標柱はしっかりと立ててある。新築の家だったらしく、漱石が最初の入居家族だったようだ。数ヶ月住んだ頃、ロンドン留学を命じられ、熊本を離れた。