一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

大村湾の風に吹かれてきたよ

 旅するオヤジ旅生です。

ウィークデーの休日、また一人車を走らせた。本当は前夜からでも出発して「車中泊」の達人を目指さなくてはならないのだが、何か面倒くさがっている。家でぬくぬくとしようとしている。日曜の夜は「麒麟が来る」を見なくてはいけないし、いやいや今日はM-1だった、などと自らに言い訳。車の中でもテレビ見れるのに。

なんなんだいったい。それじゃダメだろ。「旅に生きる」んじゃなかったのか。

己のけつを叩くように車を飛ばす。大体の方向は考えている。島原半島に渡りたい。熊本の人間にとって島原半島は目の前にあるが、間に海があるので遠い。熊本港から島原港まで直線距離にしてわずか十数キロしかないのに、高速フェリーを使えば、プリウスαの場合、片道4000円くらいかかる。高い‥。

というわけで、長州港から多比良港へ向かうことにする。こちらは半額の2000円。遊びで行くのだからそれくらい節約しないと。ちょっと悲しいが仕方ない。4円パチンコではなく1円パチンコをやっているような気分である。

 

島原半島に上陸。熊本の山並みや造船所が目の前に見えるのだが、海を越えたおかげで、ものすごく遠くに来た感じがする。それがなんとも嬉しい。このあたりから最終目的地がおぼろげながら見えてきた。

大村市である。まだ行ったことがない上に、有名なキリシタン大名の城下町だ。

その前に多比良港から車で10分ほどの神代小路(こうじろくうじ、と読む)に立ち寄る。7〜8年ほど前も来たことがある。佐賀・鍋島家の飛び地だ。初代領主の鍋島信房は、肥前佐賀藩藩祖の鍋島直茂の兄にあたる。一つの宿場町程度の小さなエリアだが、文化庁から重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けている。

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江戸時代から変わらないであろう路地を歩いていると、ちょうど正午のサイレン。歩いている人は誰もいない。国重要文化財の鍋島邸は定休日。残念。旅生は月曜日に休むことが多いので、意外とこんな目にあう。

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それにしても風情がある。しかしよくよく見ると廃屋も多い。もったいないなあ。住みたい。別荘にしたい。

思えば50年ほど前、ここはどこにでもある田舎の住宅地だったのではないか。旅生理論では古い町並みは「造るもの」である。築200年の家でも「文化財保護」の思いがなければ、あちこち改築され、茅葺の屋根は剥がされ、庭先は荒れ果てる。

古い町並みを守るには、行政の補助も必要になる。町並みに合った改築をする時は一定額出します、とか。そういう意味では、文化庁のお墨付きはかなりの起爆剤になるだろう。県もその下の自治体も動き出す。

神代小路の住民はその辺り、かなり意識が浸透しているような気がする。

他の例でいくと大分県日田市の豆田町(ここも重要伝統的建造物群保存地区)は、30年ほど前は今以上に現代的な町並みだった。スーパーがあり、電柱が立ち並び、立派に昭和の町だった。古い風情がある家など数軒に一軒という感じ。それでも町並み保全が進んだせいで、いい感じに古びた。行くたびに「進化」している。昭和の町が明治初頭くらいの町になった。熊本ならば山鹿市がそう。

そんなことを考えながら神代を後に大村市へ。

途中で古民家風うどん屋で昼食とったりして、2時ごろ到着。イメージしてたより街が大きい。ネットで調べると人口九万人。

全く予備知識なしに城跡や「歴史の道」と名付けられたコースを歩く。でもこのコース、正直言って、住宅街の中の散歩コースでした。すいません、大村市の方々。こんなこと言って。

一軒だけ見学できる旧家老宅があったが、これも定休日。ひたすら3キロほど歩き回った。もうちょっと予備知識仕込んでくるべきだったかと反省する。それでも城跡近くのコンビニは観光地で時折り目にする茶色の彩色だった。「歴史ある町の自負が強いんだろうな」と感心した瞬間でした。

城跡の裏側で大村湾をしばし眺める。対岸まで見えて、不知火海有明海みたいだ。「これは琵琶湖です」と言っても信じてもらえそうだ。

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その後、アーケード街を歩いた。見事なまでにシャッター街になっていた。

でもパイパス沿いのスタバはかなりの賑わいでした。今や地方都市はバイパス沿いのチェーン店でもっているのかもしれない。だからどこに行っても似た景色だ。格好付けて言えば、賑やかだが寂しい景色である。

 

 

M-1見た。敗者復活戦から。

旅するおやじ旅生です。

M-1今年も見た。それも敗者復活戦から。好きだね〜と我ながら思う。

旅生が住む熊本から「からし蓮根」が昨年は決勝に進出したが、今回は敗者復活戦で5位に終わった。残念だが、仕方ないだろう。まだ爆発力に欠けるような。熊本弁、関西弁、標準語の混在も気になる。内輪受け的な笑みも個人的にはいかがかなと。ただこれは意見が分かれるだろう。中川家でもしばしば見られるし。

さて決勝戦。敗者復活戦からは「インディアンス」が勝ち上がった。順当だと思った。しかし出番は一番手。かなり不利。なにしろ場が温まってない状態での「その日の基準」にしかならず、どんなに良くてもその後、抜かれる。

ネタは「真面目に見られるが、以前はヤンキーだった」という話を発展させた。テンポも良く、尖りすぎてもなく、破綻なし。よく頑張ったと思う。旅生好みの漫才だった。しかし予想通り、ズルズルと順位は下がり、最終決戦圏外に。

結局最終3組に残ったのは「おいでやすこが」「マヂカルラブリー」「見取り図」。今回、前回のミルクボーイのようにずば抜けた存在がなかったような気がする。

3組には残らなかったが、個人的には「錦鯉」のパチンコネタは笑えた。ただこれは旅生がパチンコ好きだからこそ面白く感じたのかも。パチンコしない人には面白さが今ひとつ伝わらなかったかも。審査員の指摘通り、ひたすら馬鹿馬鹿しいのがこのコンビの良さだろう。

ウエストランド」の自虐ネタも面白かった。以前、上沼恵美子が別の漫才師に「自虐ネタは結局ダメ。それくらい分からんのか」と言っていたので、こりゃダメかなと思っていたら、やはり点数が伸びなかった。

どうも旅生が感じる面白さは、M-1で必要とされる面白さと少しずれる。舞台を乗っ取るくらいの攻撃的な漫才なのだろうか、M-1で大事なのは。よく分からない。

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で、優勝はマヂカルラブリー。写真はテレビ画面を撮影したもの。

野田クリスタルがとにかくダイナミックに動き回るシュールな漫才。ん、なんとなく既視感。考えてみると爆笑問題に似ていなくもない。動き回り方が。ただ太田のような理屈臭さはないかな。太田は場合、最初の数秒。動き回るの。野田クリスタルは最後まで動き続けた。面白いのかどうか、正直不明。

気になるのは、つっこみの村上に存在感がなく、覚えにくいこと。セットで印象に残らないと人気漫才師になれない気がする。ネットで見たら、村上の趣味は読者とか。今後、どう展開していくか楽しみではある。

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放映後、GYAOで放送された反省会の一コマ。よく見るといずれの審査員も点数の幅が思ったより小さい。それとも今回はドングリの背比べだったということか?

審査員が点数をつける時、妙に真剣な顔になるのが笑える。分からないじゃないが、なんか変。M-1絶対主義も行き過ぎるとおかしい。

高千穂の歴史と神話を考える

こんにちは。一人旅おやじの旅生(たびお)です。

久しぶりに高千穂に行ってきた。最後に行ったのは熊本地震が起こる4日前。やがて5年が経とうとしているわけである。もう5年なのか。いやと言うほど続いた余震もすっかりなくなってしまった。しばらくは建物の解体が続き、空き地が目立ち、空ばかり広くなった熊本だったが、いつの間にか「災害復旧車」と書かれたトラックの姿を見ることもなくなり、いつの間にか以前の熊本に戻りつつある。

さて高千穂である。朝8時前に熊本市の自宅を出発。近くのマクドナルドで朝マックを食べたり、県境を越えた五ヶ瀬町で温泉に浸かったりしているうちに時間が経ち、高千穂神社に着いたのは正午近かった。それにしても五ヶ瀬町の温泉「木地屋」はお湯の質が良くて、ついでにお客も少なくて最高でした。

この日はここ数年の12月にしては珍しく、強い冬型の気圧配置となり、高千穂(確か標高は300メートルほどか)は昼間でも気温が3度ほどまでしか上がらなかった。おまけに風が強いため、体感温度は零度くらいだったのではないか。県境あたりは早くも小雪がチラついていた。まったく持って鼻の奥がツーンとする寒さだった

 5年近く前の2016年4月10日も高千穂神社を訪ね、見事な杉木立に感動したのを覚えている。源頼朝が家臣の畠山重忠に手植えさせたという秩父杉は樹高55メートル。境内には同じように堂々とした杉の巨木が何本もあり、荘厳な空気に包まれている。夫婦杉の周りにはたくさんの絵馬。高千穂八十八社の総社らしいが、縁結びの神様としての人気もあるみたい。

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ところで高千穂といえば神話なのだが、なぜ高千穂が天孫降臨の地となったのか、なんとなくピンとこない。この日は高千穂神社から天の岩戸神社などを巡り、あまり人がいない歴史資料館も訪問。その合間にはスマホで高千穂の歴史も調べた。

でもどうしても分からない。高千穂の方々には失礼だが、なぜ天皇家の始まりをこの地に選んだのか、本当に古事記日本書紀はこの地を設定したのか、書き間違いあるいは誤読ではないか……。私は神話にほぼ興味がないので、てっきり高千穂には考古学的、史学的になんらかの学術的証拠があるものと思ってきた。でもそうではなく、天孫降臨の地は宮崎か、あるいは福岡か、あるいは阿蘇か、といまだ論争が続いているようなのだ。

ということは高千穂には「伝承」だけが残っているということ? 天孫降臨の場である「くしふるだけ」(くしふるは漢字が難し過ぎて字が出ない)、天照大神が隠れたという「天の岩戸」、その天照大神を説得しようと八百万の神々の会議をした「天安河原」……。意地悪く見れば、これらは神話に合わせて後付けで設定された場所といえなくもない。

史実の高千穂を見ると、古代の有力者がいたものの豊後の大神氏が引き継ぎ、高千穂氏を名乗り、その後は三田井氏と名を変え戦国期まで統治。江戸期からは延岡藩の一部となる。なにかどこにでもある郷土史のようで、神話の世界と全く分離している感じがするのだ。融合している気配がない。
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神話に詳しい方々、古代史に詳しい方々からすると、「なに訳の分からないこと言っているんだ」とバカにされそうだし、高千穂の方々には「高千穂のことけなすなら来なくていい」と怒られそうだ。

ただ高千穂に来るたびにそう感じてしまうんですよね。素朴な疑問として。

国の中心として適当な場所である近畿をおさえるため、九州の部族が東に向かったというのは「あり得そうな話」で説得力がある。古代において文明は大陸から九州に入り、国内では西から東へ移動したのは間違いのないことである。

たぶん私が知らないだけで、現実の高千穂と神話を結びつける多くの学術的事実がたくさんあるのだろう。実際、800年前に頼朝の命で高千穂神社に杉が植えられているくらいなのだ。そんじょそこらのぽっと出の「神話の里」ではないのである。

そんな理屈とは関係なく、高千穂は厳かな空気に包まれており、観光地として十分に魅力的である。

特に天安河原は何度行っても雰囲気がいい。遊歩道をくねくねと歩き、目の前に突然、巨大な岩屋が現れる。観光客はみな言葉をなくし、黙り込んでしまう。それほどまでに厳か。願いが叶うという無数の石積みが一層、神々しさを増す。

ここ最近、東九州に興味を感じている。西九州に比べるとスポットを浴びにくい場所なので、この機会に好奇心の赴くまま、知識を深めたい。せっかくなので1300年前に編纂された古事記日本書紀も目を通してみたいものだ。

国道沿いのファミリーレストランで一人、ハンバーグランチを食べながら、そう思う。

旅する旅生 豊後の石垣原を歩く

いろんな人々のブログを読んでいて気付いたが、私にはハンドルネーム(というのかな)がない。だから一人称で語る場合「私」と表記している。でもなんだか違和感あり。もっと気軽に自らを打ち出せる名前がないものか……。

タイトル通り「一人旅おやじ」では長過ぎる。

では旅に生きるので旅生(たびお)にするか。安易。なんかタピオカみたい。でもいいや。旅生で決定。

 

こんにちは旅生です。

前回に続いて豊後の国をめぐる旅。別府の人気回転寿司「亀正」で妻が昼飯食べてる間に、以前から気になっていた、石垣原の合戦跡をたどることに。

 

この合戦について、Wikipedia先生の説明を旅生なりにまとめてみるー。

 

関ヶ原の戦いを前に、全国は徳川側「武断派」と石田側「文治派」に分かれる。もちろん九州でも同様である。

豊前を治めていた黒田如水・長政親子、九州に睨みを効かそうと徳川から杵築一帯を加増されたばかりの細川忠興(丹後宮津城主)、そして肥後の北半分を治める加藤清正、は徳川側の武断派。一方、薩摩の島津、肥後南部を統治する小西、柳川の立花、佐賀の鍋島らは石田側の文治派だ。

石垣原の戦いは「九州の関ヶ原」と言われる。戦が決したのも同じ9月15日である。

では誰が戦ったのか。大友宗麟の嫡男義統と黒田如水がその中心人物。

数年前に秀吉により豊後一国を分捕られたばかりの大友義統は、皮肉にも今度は豊臣家から支援を受ける形で大坂から瀬戸内海を経て豊後入り。各地にバラバラになっていた旧家臣団を呼び集め、いまは高速道路の別府ICなどがある立石地区に陣取った。

片や中津城から南下してきた黒田如水の軍勢は、細川家筆頭家老で杵築城を預かる松井康之らと実相寺山一帯に軍を敷いた。石垣原を数キロ挟んで敵陣と対峙。如水は実はこの頃、九州を平定し、やがては徳川家と渡り合おうと野心を燃やしていたと言われる。そのあたりはNHK大河「軍師官兵衛」のクライマックスとなった。余談だが松井家は細川家の肥後入国から幕末まで、旅生がこの2月まで暮らしていた八代を統治した。

戦いは当初、大友軍の有利に見えたが、やがて黒田・松井軍が盛り返す。大友軍は有力武将であった吉弘統幸、宗像鎮統らが討ち取られ、やごて敗走した。ここで豊後の中世は完全に終止符を打った。

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ここまではWikipedia先生の説明に旅生の半端知識を混ぜ合わせた説明である。

回転寿司の「亀正」に妻を降ろし、グルメにはほぼ関心がない旅生は一人、石垣原を見物することにした。

まずスマホで場所を確認。なんと黒田・松井が陣取った実相寺山は亀正のすぐ目の前だ。標高は100メートルくらいだろうか。頂上には仏舎利塔。麓にはきちんと整備されたサッカー場グラウンドゴルフ場などがある。

車で頂上へ。業務車両などが数台。サボりにはうってつけの場所である。

説明板があったので読んでみる。写真を使った合戦地図があり、とてもわかりやすい。大友の陣地である立石地区は意外と近い。石垣原は今では住宅がびっしり立ち並び、ここで壮絶な死闘が繰り広げられたことなど知らない人の方が多いのではないだろうか。

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それにしても合戦場が完全な住宅街になっているのは珍しいように思う。関ヶ原は今も田畑がほとんどで、西南戦争の激戦地だった田原坂も畑や林が広がっている。まぁ大坂の陣の戦場跡は完全な都市となっているが。

そんなことを考えながら石垣原一帯を眺めていると、妻からライン。「もう食べ終わるから、迎えに来て」。妻も歴史探訪に興味があれば、旅はもっともっと楽しいのだが、などと思いながら実相寺山を下った。

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豊後の歴史を紐解き訪ねた

地元の歴史には詳しいが、隣県の歴史はよく知らないと言う人、意外と多いのではないかと思う。私もそうだ。とは言いながらも、鹿児島、佐賀、長崎、福岡は何かと歴史的な特徴が明らかなのでおおよそのことは分かる。

ところが大分県についてはほとんど知らない。大分には日田、杵築、臼杵など古い町並みを残した観光地が多く、何度も訪ねてその風情を楽しんできたが、「じゃ、そこの城主(あるいは領主)の名前言える?」と聞かれたら、まず答えられない。

そこで山川出版が出している「大分県の歴史」を近くの県立図書館に出向いて読んでみた。

なかなかのもんでした。宇佐神宮、国東半島の六郷満山、大友氏・・・。「そう言うことだったんだ」。「洛中洛外図屏風」のように靄っていた霧がサァーっと晴れた気がした。

大分県民にはちょっと失礼な分析かもしれないが、「戦国時代までは極めて重要な地域。豊臣の蔵入地になって以降、小藩分立状態となり歴史的印象が薄れた」という感じを受けた。

宇佐神宮はご存知の通り、全国に4万4千ある八幡宮の総本社。奈良時代東大寺造営の際に中央政権に近づき、平安時代においては九州最大の荘園領主に。国東半島の天台宗勢力と結びつき、京の文化に劣らない六郷満山文化を形成した。戦いの神様として知られ、蒙古襲来の際は盛大な加持祈祷が行われた。その後も武家からの信仰が極めて厚かった。

一方、キリシタン大名で有名な大友宗麟の大友家。鎌倉初期、九州を治めるため少弐氏、島津氏とともに送り込まれた家筋である。豊後・肥後・筑後の守護として名を馳せ、蒙古襲来の際は少弐氏と共に鎮西奉行として奔走。長年にわたる蒙古への備えのため最前線の博多に拠点を置いたこともあり、海外貿易都市である博多との関わりが深い。

ただ九州での領土拡大を目論む山口の大内氏とは常に対立。宇佐神宮も両者に挟まれ、翻弄された。大友氏は戦国末期には島津氏の侵攻も受けたが、豊臣秀吉九州征伐により島津氏は押し戻され、大友氏は豊後一国が安堵された。しかしわずか数年後、朝鮮出兵で大友軍は「敵前逃亡」の謗りを受け、改易される。

この改易が大分にとって大きな転換点となる。

秀吉は豊後を「豊臣家の蔵入地(直轄地)」とする考えがあったようである。細分化された豊後に多くの代官や大名が送り込まれる。秀吉は豊後を論功行賞のための場、調整のための場にしたかったのかもしれない。関ヶ原の戦いを経ても領主の入れ替わりしばらく続く。

ちなみに江戸時代の大分の藩と石高、Wikipedia先生によるとー。

杵築藩=小笠原家(4万石)→能見松平家(3万2千石)

高田藩=能見松平家(3万7千石→3万2千石で杵築藩に移封)

日出藩=木下家(3万石→2万5千石)

森藩=来島家(1万4千石→1万2千石)

府内藩=竹中家(2万石)→日根野家(2万石)→大給松平家(2万1千石)

臼杵藩=稲葉家(5万石)

佐伯藩=毛利家(2万石)

岡藩=中川家(7万石)

立石藩=木下家(5千石)

このほか、幕府直轄地(例えば日田)、複数の藩の飛び地(熊本藩は参勤交代の道筋に2万石を領していた)などが複雑に入り乱れていた。なかなか豊後一国としての力を発揮するには難しい状況だったのではないかと思う。全体的に山がちで平野が少なく、干拓などで領土を拡大する地形的条件に恵まれなかったのも大きいと推測している。

ただ古い町並みは今もいい感じで受け継がれている。それぞれの藩は小さかったが、熊本などに顕著に見られる徹底した「スクラップ&ビルド」志向は薄く、歴史や文化を大事にしているように思えるのである。

というわけで別府市に隣接する日出町に日帰り旅を挙行した。

日出藩の存在は薄々知っていたが、城跡など史跡を訪ねるのは初めてだ。

まずは日出城跡に。初代藩主の木下延俊は名前からも想像がつく通り、秀吉の正室高台院(ねね)の甥っ子。関ヶ原で寝返った小早川秀秋の兄にあたる。

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城跡には当時の建築物として鬼門櫓が残っている。明治の取り壊しを免れ、別の場所に移築されていたのを調査・解体し、7年前にもともとあった現在地に復元。すぐ横には歴史資料館もあり、日出藩の歴史を詳しく知ることができる。

歩いてすぐの場所にあるのが藩校致道館。以前は城内にあったが中学校を建てることになり、現在の場所に移築したという。

小藩の藩校らしくこじんまりとしているが、窓の外には別府湾。遠くに高崎山が見える。なんとも明るくキラキラした風景だ。中を見学していたら管理人のおじさんが出てきて説明してくれた。押し付けがましくなく、訥々と紹介してくれる。「木下家は移封されることなく幕末まで続きました。これもねねさんのお陰です」とおじさん。「時々、藩主がやってきて、ここに座って勉強の様子を見ていたそうです」。

ところで今も藩主の末裔は日出町に住んでいるのだろうか。「いえ、神奈川県に住んでいらっしゃいます。城下カレイ祭りの時には来られます。日出はカレイだけですから」と謙遜されたのが微笑ましかった。
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資料館と藩校を訪ねて知ったのだが、日出藩の創設には驚いたことに、前回の記事にも書いた細川忠興が大きく関係していたのだ。

初代藩主の木下延俊は忠興の妹を妻にしていた。

関ヶ原で徳川側についたにもかかわらず、戦後なかなか論功行賞が決まらずにいた延俊を徳川家に強く売り込んだのが、義兄の忠興だった。

実は丹波宮津城主だった細川家は、関ヶ原の数カ月前、日出に近い杵築一帯6万石を家康により加増されていた(これもまた飛び地)。島津、小西ら九州の反徳川勢に睨みを利かせるための措置と思われる。その関係で、杵築に近い日出に木下延俊は配置されることになったようだ。

細川家は関ヶ原後、豊前39万石に国替えとなり小倉に城を建てるが、その約30年後には加藤家改易を受けて肥後54万石の藩主となる。

私の行くところに忠興あり、である。ちょうど400歳の年の差。縁があるのだろう。考えてみると、このブログに何度「忠興」の文字を記したか分からないほどだ。

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その後、的山荘を見学。金山経営で財をなした福岡出身の実業家成清家の邸宅である。現在が成清家の手を離れ、町が所有。城下カレイを食べられる割烹料亭となっている。

皇室や著名人の訪問も多かったようだ。
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京都はやはり禅寺ではないか

先月訪ねたものの、初日だけ書いて二日目以降を後回しにしていた京都の旅について、記憶が薄れないうちに書きとどめておきたい。

前にも書いたが、京都の魅力は禅寺に結構集中していると思う。下の写真は祇園にある臨済宗建仁寺に展示してあった俵屋宗達の「風神雷神図屛風」。もちろん複製である。本物は京都国立博物館に大切に保管してある。

 

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日本美術ファンになってまだ日が浅い私だが、この屏風、たまらなく好きだ。風神雷神の躍動感は言うまでもない。その間の空間の広がりも見事。俵屋宗達本阿弥光悦とともに江戸初期、「琳派」の祖になった人だが、琳派作品が共通して持つ「間」というか「省略された空間」みたいなものは、今へと続く日本人の美意識に大きな影響を与えていると強く感じる。

琳派からはこの後、尾形光琳酒井抱一らが宗達や光悦を〝リスペクト〟する形で江戸や京都で作風を継いでいく。東京の出光美術館などに琳派の作品を多く見ることができる。彼らの作品に拒否感を持ってしまう人は極めて稀なのではないかと思う。若冲円山応挙のちょっと過剰なまでの描き込みが苦手なだけに、琳派のスッキリ感が私は大好きなのである。なにかキラキラしているし。

ここ20~30年、江戸絵画の再評価が進み、若冲をはじめ曽我蕭白長澤芦雪らが「奇想」をキーワードに紹介されることが多い。確かに面白いし、すごい。ちょっと怖くもある。作品の前に釘付けになってしまう。

しかしながら、やはり琳派をもっともっと表に出してほしい。まぁしかし、これまで十分表に出ているといえば出ているが。

禅寺のスッキリ感

京都の禅寺には、こうした「スッキリ感」が満載されている感じがする。

何しろ安土桃山時代、多くの武将たちが禅寺で茶をたしなみ、作庭にいそしんだ。今に至る日本文化は主に室町時代に東山で形成されたとされるが、安土桃山時代はそうした文化が煎じ詰められた時期だったのだろう。下の写真は建仁寺の石庭。
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今回の京都旅行で特に印象に残ったのが大徳寺だった。朝の開門を待って、10年ぶりくらいに訪ねた。

ここは禅寺の集合体のような寺院。かなりの数の塔頭があり、それぞれが戦国大名たちとのゆかりが深い。例えば高桐院は細川家、総見院や黄梅院は織田家、三玄院は石田家、芳春院は前田家といった具合だ。創建したり、帰依したり、関わり方は様々だったのだろう。
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ただ東山などの寺院と違い、大徳寺は年間通して拝観できる塔頭が限られている。ほとんどの塔頭は門前に「拝観謝絶」と張り出している。観光地化された京都において珍しい。

司馬遼太郎は「街道をゆく 大徳寺散歩」で「大徳寺山内の二十余の塔頭は、ことごとく第一級の美術館といっていい。同時に、どの塔頭も、室町期から江戸初期にかけての英雄豪傑、あるいは珠光、利休、遠州といった日本芸術の巨峰群たちの精神の巣窟でもあった」と記している。

六角氏ゆかりの塔頭

大仙院に入った。

1509年の創建である。こじんまりとしているが、方丈は国宝で、日本最古の玄関など創建当時の建物がそのまま残っている。方丈には狩野元信(狩野派2代目。狩野永徳の祖父)の花鳥図(国重文)などがある。国特別名勝である「書院庭園」は蓬莱山から流れ落ちる滝が大河となって海に流れ込む様子を表現。庭に面して利休が茶をたてた小さな茶室が残っている。

若い女性が案内してくれた。ひとしきり話を聞き終えて、気になっていることを質問してみた。この塔頭はどこの有力者とゆかりが深いのかー。

「六角氏です」。意外な名族の名に「へえ〜」と感心する。鎌倉時代から南近江を統治した守護大名だが、上洛する織田信長軍に打ち負かされたあたりから姿を消していく。ただこの塔頭が創建された時代は確かに六角氏にまだ勢いがあった頃である。

私の歴史感覚でいけば信長上洛あたりが時代の境目になっており、その前と後でなんとなく区分している。「前」は映像がイメージしにくい「はるか昔」。「後」は比較的イメージしやすい「かなり昔」。六角氏は「前」の人々であり、それだけに私の驚きは大きかった。それほど古い塔頭なのである。

清正が持ち帰った朝鮮灯籠

大仙院で御朱印をもらい、今度は秋の特別公開がされていた黄梅院へ。

1562年に織田信長が父信秀の追善のため創建した塔頭だ。この塔頭にも国重文の本堂や唐門などの建造物があるが、庭園が見事だった。利休が作庭した直中庭もある。加藤清正が持ち帰った朝鮮灯籠も。

朝の早い時間に訪問したのも良かったのだろう。いい具合に秋の光が差し込み、陰影が際立って美しかった。ガイドの女性の京言葉が遠くで聞いていると「さわさわ」と葉擦れの音のように感じられ、句作への思いが一気に高まる。

 

禅寺のさやけき朝の京言葉

 

京都は秋が一番だ。いろいろな特別公開があり、感動もひとしおである。
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大徳寺で一つ残念だったのが、コロナの影響で細川家ゆかりの塔頭「高桐院」を拝観できなかったこと。ここでは利休七哲の一人である細川忠興の存在を濃密に感じられる。

細川忠興の存在感

忠興は近世細川家の初代幽斎の息子である。1563年生まれ。私と400歳差だ。文化人として知られた父親の才能が遺伝したのか、忠興も文武ともに優れた武将として知られる。幽斎が明智光秀と親しかった関係で(大河ドラマ麒麟が来る」を参考にしてください)、光秀の娘たまと結婚。忠興はその気性の激しさゆえか、たま(後のガラシャ)を過剰なまでに偏愛した。

ちなみにガラシャ本能寺の変の後、「反逆者の娘」扱いとなり、丹波の奥地に数年間幽閉されている。その十数年後、関ヶ原の戦いの折、ガラシャは石田勢の手に落ちるのを嫌い、大坂の細川邸で自決した。常に悲劇に伴われた女性だった。

話はガラシャに逸れてしまったが、忠興はそうしたたくさんのエピソードを持つ戦国武将なのである。

何度も書いたが、私がこの前まで住んでいた八代はこの忠興の隠居の地であった。忠興が作ったとされる庭園や信長を追善する石碑が、市民にあまり知られることなく存在している。

高桐院には忠興の墓石がわりの石灯籠がある。忠興はこの笠の一部が欠けた石灯籠を大事に持ち歩いたらしい。利休ゆかりの石灯籠という。参勤交代の際も八代から江戸までこの石灯籠を常に身近においたという。おそらくは忠興邸があった現在の松井神社(八代城の北の丸)あたりにこの石灯籠が鎮座することも多かったのだろう。

足底筋膜炎の痛みを我慢しながら大徳寺を後にする。

秋空が高かった。

 

ちなみに足底筋膜炎はその後、ステロイド剤を注射したことで痛みが治っている。かかとに打つ注射の痛かったこと。



宮本浩次の「ロマンス」好調

ソロ活動をしているエレファントカシマシ宮本浩次が、最近盛んにメディアに露出している。ニューアルバム「ロマンス」の売れ行きが順調だからだろう。
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私も10日ほど前に購入した。岩崎宏美の「ロマンス」、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」、ちあきなおみの「喝采」など70年代を中心に女性歌手の名曲を激しく、しかし情緒豊かに歌い上げる。それも原曲通りと思われるキーで。

ホント、感動します。

夕暮れ迫る街並みを見ながら車の中で聞いた。恥ずかしながら涙がとめどなく出た。心が浄化されるようだった。

特に「木綿のハンカチーフ」は大好きな曲。小学6年生の時に流行った。宮本と一緒に歌ってみるのだが、4番の「恋人よ、君を忘れて、変わってく僕を許して」というフレーズになると胸にググッと来て、歌えなくなってしまう。

「ジョニーへの伝言」も最高だ。あの頃の名曲に出てくる女性は踊り子や歌手が多い。寅さんで言うところのリリーである。「今度のバスで行く。西へも東へも」という歌詞がいい。旅情を誘う。「ジョニーが来たなら伝えてよ。私は大丈夫」「根っから陽気にできてるの」といったセリフ、現実にはあまり使いそうにない。リリー好みの言い回しである。どこか無国籍な雰囲気。アメリカへの憧れなのだろうか。海外に行くことなどほとんどできなかった時代である。

宮本のこのアルバムのラインナップは、私が70年代に好んで口ずさんでいた曲ばかりである。80年代なら「赤いスィートピー」。カラオケが普及し始めた頃なので、よく歌っていた。

思えば70年代の歌謡曲というのは、ほかのどの時代にもない深さがある。阿久悠筒美京平松本隆らの才能、今になって思い知らされる感じだ。

朝ドラ「エール」を見ていて改めて感じたが、古関裕而の時代はやはりメロディーも詩もストレートで変化に乏しかった。それが60年代終盤から歌謡曲の世界がググッと変わってくる。アレンジのレベルアップあたりも影響したのか。堺正章の「さらば恋人」のイントロを聞くだけで心は一気に持っていかれる。

謡曲のピークは70年代前半なのではないか。もちろん個人的な感覚なのだが。

70年代も後半になるとニューミュージックと呼ばれる分野が現れ、ユーミンとかサザンオールスターなどが出て一気に歌の世界の照度が上がる。なにか明るさが増したのだ。良くも悪くも。そしてシンガーソングライターの存在が当たり前となる。

私が大学生だった80年代でさえ「70年代っぽい」という言い回しが早くも存在して、冷やかしたり冷やかされたりする時に使っていた。それくらい70年代は「濃い時代」だった。ちなみにこの「70年代っぽい」という言葉は20世紀の間はしばしば使われたが、さすがに最近ではあまり聞かなくなった気がする。

90年代以降、楽曲の作りは高度化したと思う。コード進行一つとっても以前とは全然違う。もちろん素晴らしい曲はたくさんあるが、時々、70年代の「バランスのちょうど良さ」が懐かしくなる。

宮本のアルバム「ロマンス」を聞いて涙したのは、そのあたりが大きいのかもしれない。

27日朝のNHKあさイチ」に宮本が出演。華丸大吉とたっぷりトークを展開したうえ、「ロマンス」など3曲も披露した。朝からあれだけ熱唱できたところを見ると、一睡もせず本番に臨んだのかもしれない。ちなみにこのブログに掲載した写真はテレビ画面を撮った。

宮本はそういうところ生真面目そうなので十分にあり得る。

視聴者からのメール紹介で、「アルバム聴いて、翌朝目が腫れるくらい泣きました」というのがあった。自分と同じ感覚の人がいるんだなと嬉しかった。