一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

安易に新築し過ぎだよ日本人

旅吉です。

地元紙にこんな記事が出ていた。旅吉が数年前に過ごした熊本県八代市の話。今から60年ほど前に建築された八代市厚生会館が解体される方向で動いている。一部の市民が保存を訴えたが、結局は解体へ。芦原義信氏が設計して1962年にオープン。地方の文化施設としては当時際立った存在だったみたい。

八代に住んでいたころ、この厚生会館あたりは旅吉の散歩コースだった。仕事の関係で何度か中に入ったことがあるが、老朽化はしているものの、しっかりとした建物だ。

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この建物の保存を声高に叫ぶつもりはない。ただ日本人、とりわけ熊本など一定の地域に住む人々の「スクラップ&ビルド」に突っ走ってしまう感覚には疑問を感じずにはいられない。「イケイケどんどん」で建築したかと思うと、ある程度老朽化したらあまり疑問を持つことなく取り壊してしまう。

さすがに江戸時代以前の建物に関しては保存する動きもあるが、明治以降の近現代の建築物には思い入れがない感じさえする。

その鈍感な思い、わからんじゃない。熊本は西南戦争、太平洋戦争、そして熊本地震。数十年ごとに価値ある建造物が被災する憂き目にあっている。それゆえか、例えば熊本市内を見回しても昭和初期以前の建物はかなり少ない。さらに付け足せば熊本県内には文化庁指定の重要伝統的建造物群保存地区は1か所もない。かなり珍しいケース。

と、ここで歴史的景観の町並みがないことを悲観しても始まらない。

旅吉がいま心配しているのは明治以降の建物、さらに焦点を絞れば、この八代市厚生会館の例が示すように、戦後に建てられた価値ある建物がこれからどうなっていくのだろう、ということ。

旅吉は「残していくべき」と考えている。

先進国の中で「造っては壊し、造っては壊し」を繰り返しているのは日本だけではなかろうか。日本人はあまりに安易に建物を造りすぎる。

熊本県内を見た場合、熊本市や近隣の合志市などを除き、ほとんどの自治体は人口が減少し、過疎地域の指定まで受けている。それなのにかなりの田舎に行っても住宅地は拡大している。人口が減っているのに住宅は増えているわけだ。

なので空き家だらけ。一人暮らしのお年寄りが亡くなり、都会で暮らす子供たちが年に何回か風を通しにやってくる。もちろん買い手がつくはずもないので、延々とその作業は続く。固定資産税が跳ね上がるから解体もしない。もはや仏壇を置く倉庫と化している。集落のほとんどがそんな空き家というケースも珍しくない。

新築好きな日本人(熊本は特にその傾向強し)は、建物を建てることには意欲的だが(人生の記念碑と考えるのだろう)、その数十年後にその建物をどうするかということにきわめて鈍感というしかないだろう。もはや思考停止しているとしか思えない。

とは言いながら、旅吉も40歳のころ、今の家を建てた。なんの疑問もなく、喜び勇んで。相前後して父親も家を建て替えた。それから20年。これからどうしたものか頭を抱えている。

話はそれたが、近現代の建物を町中で大事に利活用しているのは、なぜだか明治維新に貢献した地域が多いような。土佐(高知)は知らないが、薩長土(鹿児島・山口・佐賀)にはずっしりとした建物が数多く残っている。

一方、瀬戸内海に近い中国地方~近畿地方にも多い。訪ねるたびに感心させられる。

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上の写真は岡山県真庭市にあった明治期建築の小学校跡「旧遷喬尋常小学校」。30年前までは実際に利用されていた。新しい校舎ができてからは「三丁目の夕日」などのロケに使われている。国の重要文化財

下の写真は島根県松江市島根県立図書館。福岡県久留米市出身の建築家である菊竹清訓の設計で昭和40年代にオープン。内部の写真は撮っていないが、50年前の建物とは思えないほど開放的で斬新な造りだ。隣接する武道館や県立美術館も菊竹が設計している。

ちなみに宍道湖に面した県立美術館では、この菊竹の作品や生涯を紹介する展示も行われていた。勉強になったと同時に、島根県民の菊竹作品への思い入れを感じた。恥ずかしながら、熊本県伝統工芸館(熊本城のすぐ近く)もこの人の設計であることを初めて知った。

旅吉の勝手な推測だが、松江市内のこれらの建築物は、早々に解体されたりすることなく、可能な限り長く大事に利活用されるのではないだろうか。

前々回のブログで松江市のことを紹介したが、この町に魅力を感じるのはこうした「古いものを大事にする精神性」だと思う。「とってつけた」ものではなく「そもそも住民の心の核にあるもの」のような。善意に見すぎかな。

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何度か書いたけど、近現代の日本建築を一番熱心に保存しているのは台湾なのだ。

下の写真は台中の市役所。日本統治時代も役所だった。市民のふりをして中に入ったら、環境担当の部局などが普通に入っていた。

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下の写真は台北。日本でいえば霞が関みたいな場所だろうけど、多くは日本人が建てた明治~昭和初期の建造物だ。「ありがとう、台湾」と思った。
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ブログの最初の記事がこの台湾の建物について。ぜひ読んでみてください。

 

noaema1963.hatenablog.com

 

noaema1963.hatenablog.com

 

全国12の現存天守閣を踏破した

旅吉です。

前回に続き中国地方散策。ご存じかと思うけど、全国には安土桃山~江戸時代に建てられ今も現存する天守閣が12か所ある。

北から順番に、弘前(青森)、松本(長野)=国宝、丸岡(福井)、犬山(愛知)=国宝、彦根(滋賀)=国宝、姫路(兵庫)=国宝で世界文化遺産、松江(島根)=国宝、備中松山(岡山)、丸亀(香川)、松山(愛媛)、宇和島(愛媛)、高知(高知)。国宝以外は重要文化財

この中で最後まで未訪問だった岡山県高梁市にある備中松山城を、今回の車中泊旅で訪ねた。とうとう12か所踏破である。感慨深い。

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標高480メートルの山頂にあるので、中腹の駐車場からかなりの急坂を20分ほど歩かねばならない。登城の道沿いは国有林で、ブナやミズナラの広葉樹が広がり、なんともさわやか。

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九州でこの標高なら照葉樹林で黒々としているけど、中国山地まで来ると様相がだいぶ違ってくる。中国山地は比較的、人工林が少ない。紅葉の時期は素晴らしいことだろう。九州の平野部ではまず聞くことがないミンミンゼミの鳴き声。それと全国共通のツクツクボウシ

息が切れ、汗が流れだした頃、石垣が見えてくる。山城特有の複雑に重なり合った景観が素晴らしい。

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やがて天守閣に。2層2階の複合式望楼型天守。失礼ながら巨大城郭の「櫓」ほどの大きさだけど、それはそれで味がある。山城にはこの大きさがぴったり来る。天守閣のあたりからは高梁市の町並みがはるか遠くに見下ろせる。平日にかかわらず観光客はある程度いた。兵庫県竹田城と同様、雲海が出ると幻想的な「天空の城」になる。

ちなみにこの城、戦国時代から城主は何度も入れ替わり、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と続いた。小さな城だけど、山陰と山陽を結ぶ交通の要衝だったので、重要視されたようだ。

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麓の城下町も歩いてみた。2回、「男はつらいよ」の舞台になっている。高梁市に寅さんの義弟である博の実家があるという想定なのだ。城下町を軽く一周した後、古代史の舞台となる吉備路へ急いだ。

【古い町めぐり 松江市】文化レベル高そう

旅吉です。

古い町巡り。3日前訪ねたばかりの島根県松江市を紹介したい。

実はまたも懲りずに車中泊の旅に出ているのだ。中国地方の中央部あたりをふらふらと。

松江は文化庁重要伝統的建造物群保存地区に指定されてないけど、いい感じの城下町らしさが随所に残っている。

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松江城の北側にある小泉八雲の旧居。松江で暮らした後、八雲は熊本の旧制五高で教鞭を取ることになるけど、熊本はあまり好きではなかったみたい。その後釜の夏目漱石もあまり熊本に執着がないみたいだし。なにしろ軍都でしたから。

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松江城天守閣。国宝になってからは初めての訪問。あらためて見るとでっぷりとしている。名古屋城のでっぷり感と少し似ている。
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明治期の洋風建築、興雲閣も城内にあった。近代の木造洋風建築物にも惹かれてしまう。
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宍道湖の夕景。週末だったので家族連れやカップルが多かった。すぐ横の県立美術館にも立ち寄ったが、なかなかの施設。水辺をテーマにしたコレクションもレベル高し。モネ、クールベ、探幽、北斎、大観‥。ビッグネームの大作が並ぶ。なのに常設展三百円。コスパ良すぎ。美術館の勢いや島根県の文化感度の良さがうかがえる。

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おすすめ度★★★★⭐︎

【古い町巡り⑤=若狭熊川宿】細川家と縁の深い場所

旅吉です。

古い町巡り。今回は、北海道の帰りに訪ねた福井県の熊川宿(若狭町)。若狭湾と京都を結ぶ若狭街道鯖街道)の宿場町。1996年に文化庁から重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)に指定された。戦国時代には、織田信長の軍勢が朝倉攻めの際に立ち寄ったことが知られている。大河ドラマ「どうする家康」にも出てきた。ちなみに家康が休息したと伝わる寺もあった。

 

いつもの通り文化庁の資料から。

福井県若狭地方のほぼ中央部,山峡にある熊川宿は,江戸時代に京都と小浜を結ぶ若狭街道の物資流通の中継拠点として繁栄しました。街道に沿って用水路が流れ,江戸時代から明治,大正の伝統的な建物が軒を連ね,歴史的な町並み景観を良好に伝えています。」

三重県の関宿や岡山県鞆の浦ほどではないけど、保存地区のエリアはかなり広い。長野県木曽谷の奈良井宿と同規模。なので観光客も比較的多いようだ。

カフェや資料館、ギャラリーが割とたくさんあり、ゆっくり観光できる。少なくとも「確かに古い町だけど、どこも行くところないなぁ」とはならない。

「へぇ~」と驚くことがあった。肥後細川家の始祖である細川藤孝(幽斎)の妻は、藤孝と同じく足利将軍家家臣だった沼田氏の娘・麝香だが、実は熊川地区を治めていたのはこの沼田氏だったのだ。もしかしたら麝香は熊川で生まれたかもしれない。知らなかった。

ちなみに沼田氏はのちに細川家の家臣となった。幕末まで6000石の家老として藩を動かした。細川家筆頭家老である松井家も同様に室町期は、足利将軍家の家臣だった。足利家の家臣団が集まって肥後細川家の骨組みを作ったというのは実に面白い。出自があやふやな戦国大名の中でも「高家」の匂いをまとっているなぁ。

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道路が赤茶色なのは、雪国ならでは。消雪パイプから散布される地下水の鉄分が酸化して、こんな色になるそう。
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猫がじっとこっちを見ていた。
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アジサイが見事。北海道は初夏だったけど、本州は梅雨に入っていました。
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ところで若狭の守護・戦国大名は武田氏。織田信長軍に攻められ小浜城は落城するが、城主の武田氏は九州に下り、阿蘇宮司家を頼ったという。そして細川家の家臣になったらしい。

この春、NHKアナウンサーからフリーに転身した武田真一さん(阿蘇の高森町出身)はその末裔だとか。ちなみに旅吉は、武田アナウンサーのお父様(故人)と仕事の関係で話す機会が多かった。気さくな方だった。NHK入局間もない真一さんの話題になり、旅吉が「オリンピックの中継とかやられるようになるかもですね」と話を振った記憶がある。ところがオリンピックどころではなく「NHKの顔」になられた。ほんとすごい。

武田アナウンサーは歳を重ねるごとにお父様に似てきている。朝のワイドショーにはまだなじんでない感じがしないでもないが、しばらくすれば「民放の朝の顔」になっていることだろう。応援してます!

 

おすすめ度★★★★★(満点)

 

 

気温24度だけど湿度90%

旅吉です。

阿蘇の高森町にある鍋の平キャンプ場に来た。阿蘇五岳の東端、根子岳のすぐ麓である。旅吉が時折訪れる、いわば定点観測地。高森町には若い頃、仕事の関係で3年間住んでいた。なので思い入れが深いわけよ。

夕方5時前に到着した。平日だけどほかにキャンプしてる人達が3組。ここは知る人ぞ知る、絶景キャンプ場なのだ。

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夕立の後なので、涼しいけど湿気がすごい。タイトルにある通りの気温と湿度。
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今日は(今日も)一人。日暮れまで時間があったので、キャンプ場から1キロほど歩いて、高森町に住んでた当時の知り合いの家がある上色見地区の集落を散策してみることに。

ただ道路が新しくなっており、記憶の中の地図とズレが生じている。「(知り合いの家は)あのあたりだったかなぁ」というところまで行けたが、結局判明せず。ピンポンしようか一瞬迷う。

ただ夕食前に突然訪問しても迷惑になるので、諦めてキャンプ場に引き返しました。還暦だからね。軽率な行動は慎まないとね。
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そういえば先日、娘たちから還暦の祝いということで、以前から欲しかったビルケンシュトックのサンダルをもらった。

今日はそのサンダルを履いて行動してる。サイズぴったりで、とんでもなく履き心地がいい。

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【古い町巡り④=出水麓武家屋敷群】薩摩最大の防衛拠点

旅吉です。

古い町巡り、今回は鹿児島県出水市にある出水麓武家屋敷群。平成7年に重要伝統的建造物群保存地区となった。

旅吉が住む熊本市から高速道路を使い約2時間。県境を越えて海沿いをしばらく走ると出水市の中心にたどり着く。鹿児島にしては珍しく広々とした平野である。

薩摩藩は江戸時代、「外城(通称・麓)」と呼ばれる地域拠点を藩内約100か所に設置した。肥後との国境に接した出水麓は最大規模の防衛拠点だった。

以下カッコ内は文化庁の資料。

「本保存地区は、中世山城である出水城から続く丘陵地を整地し、格子状に道路を掘り込んで計画的に整備された旧武家屋敷地である。保存地区は西南の役や太平洋戦争の戦災からも免れ、近代以降の改変が少なく、麓造成時の街路や屋敷地割が良好に旧態を留めている。武家屋敷を構成する建造物群が、生垣や屋敷木等周囲の環境と一体となって、麓の特色ある歴史的景観を今に伝えている」

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薩摩らしい整然とした石垣の路地が広がる。ぐるっと歩いて小一時間。クスノキ、マキ、シュロなどの濃い緑が南国の太陽に映えて、なんともきれいだ。

たくさんの武家屋敷が残っており、観光客向けにはに税所邸、竹添邸が公開されている。出水麓歴史館も最近オープンしていた。久々に訪ねたら、観光地としてのレベルがかなりアップしていた。

とは言いながら古い町並みは、限られた観光地(例えば日田市豆田地区や広島県福山市鞆の浦)以外は、どこに行っても観光客が少ない。なんだかもったいない。古民家を利用した雑貨屋やカフェが数軒あるだけでだいぶ違ってくるのだが。

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静かな町並みにクマゼミの鳴き声だけが響いていた。何度訪ねてもいい場所だ。

おすすめ度★★★★☆

銀漢という季語、いいね

久々に俳句。銀漢という季語がとても好き。天の川のことだが、もっと高尚な響きがある。

 

銀漢の濃ゆし寝付けぬはずである

 

この前行った霧島の車中泊では、なぜだか眠りにつけず車の外に出たら、驚くほどの星空だった。静寂であることが不似合いな光景。宇宙から賑やかなざわめきが聞こえてきそうだ。