一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

後半生をどう生きるか鬱々と考える

せっかくの休みに関わらず、鬱々と仕事のことを考え、ばかな1日を過ごしてしまいました。

最近時々思います。

仕事のことにいろいろ気を揉みながら暮らす日々と、何も考えず(退屈を感じながら)暮らす退職後の日々。どちらがいいものなのでしょうか。

平日の休みの日、マクドナルドに朝食に行くと、何か熱心に調べ物をしている退職後と思しき男性たちを見掛けます。それはどこかしら、無限に広がる予定のない時間の海をガムシャラに泳いでいる漂流者にも見えます。そうしないと時間の海の底に沈んでしまうかのような、一生懸命さを感じるのです。

私が通う会社は60歳定年なのですが、8割は再雇用という形で職場に残ります。で、65歳までみなさん働いておられます。以前に比べると、60歳とはいえ、若いですから。

私は再雇用されるつもりは毛頭ありません。定年退職して1〜2年間ほど自由な時間を送り、再度職場に戻るという形なら喜んでそうしますが、そういった制度は残念ながらありません。

満足がいく会社生活を送れなかったのが一番の理由です。恵まれない気質のせいでしょうか、会社での時間に苦痛を感じることが多く、自信や自己肯定感が身に付かず、気がつけば三十数年が経っていました。簡単に書きましたが、驚くべき時間の消費です。当然ながら慕ってくれる後輩がいるわけでもありません。そうした不全感のせいでしょうか、人生全体がいつも曇り空でした。敗北感と孤独感に苛まれ続けました。

さすがにこれはやばいと思っています。

こんな気分で暮らすために生まれてきたわけではないと強く思うのです。定年までは仕方ないにしても(本当はその基準さえ無意味だと思うのですが)、60歳を過ぎたら好きなように自分を解き放つべきだと。エレファントカシマシが「地元の朝」という曲で「体の全て使い果たして死にたい」と歌ったように。

私の父は小さな土建屋の社長でした。私が小さかった昭和40〜50年代、30〜40代だった父は、商売敵を電話で罵倒する荒くれぶりを子供たちに隠すことなく見せ、連日飲み屋街を練り歩いていました。私が小学4年生の時、繁華街にあったデパートが火事になり、100人以上の死者が出て大騒動になりましたが、その夜も飲み歩いていました。

50歳前に肝臓を悪くし、飲み歩くことはなくなりましたが、83歳になる今も土建屋らしい荒っぽい自己主張は変わりません。

映画にでも出てくるような父親のそんな成り上がりぶりが大嫌いでした。今も嫌です。ただ一つだけ言えるのは、この親父は「体の全てを使い尽くして」いることです。何も包み隠さず、常に自己を解放して生きてきた、と言うことです。無教養、愚かさ、付け焼き刃の浅い知識、全てを臆することなく周りに発信してきました。ある意味、一徹とも言えるその姿勢はとてもではないが真似できません。

親父を反面教師としてきた私にできることは、しっかりとした知性を身につけることでした。ただ知性だけでは世の中を渡ってはいけません。若い頃から重々分かってはいましたが、それ以外に選択肢が見えませんでした。結局のところは「生きる力」がないとどうにもなりません。「言い古された言葉」ではあるものの、その力の無さを常々感じ、負のスパイラルから抜け出せない半生でした。

だからこそ、できる限り早く、今の「場」を出て、次のステージに進みたいわけです。

実はこのブログも次のステージを模索するための取り組みでした。しかし甘くはありません。やがて目標の100回目の記事になりますが、極々限られた方々に見ていただくレベルに終始しています。

多分、何かが足りないのでしょう。ただそれがなんなのか分かりません。最近では不全感だらけだったこの三十数年間と重ねてしまい、「一生懸命すぎるのでは」「じとっとした嫌な雰囲気があるのかな」「独善的になっているだろうか」などいろいろと考えています。しかし「下手な考え休むに似たり」です。しばらく分析は放っておくことにします。

とにかく自分にできる発信は続けていかねばなりません。前にも書きましたが、インプット上手のアウトプット下手ではダメなのです。頑張ってインプットをするように、いろいろと工夫してアウトプットも頑張らねばなりません。人生を曇り空にしたのは「インプット過多」も理由のひとつだったのかも知れません。

「アウトプットの模索」は人生の第2ステージへの大切な指針かも知れません。

いろいろと書いてみて、少し気分が晴れた気がします。この歳になっても季節の変わり目はダメですね。憂鬱な気分に包まれてしまいます。女子中学生みたいです。

100回まであと数回です。形にとらわれず、旅だけをテーマとせずに、書きたいことを書いていきます。