一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

スランプに陥った旅生の俳句

旅するおやじ旅生です。

作り始めてやがて7年になる俳句。絶不調である。

旅生が参加している句会(最近はリモート開催)では毎月、主宰者から季題が提示される。例えば「お彼岸をテーマにしたもの」といった感じで、季語まで限定せずに、ざっくりとした投げ掛けだ。

会員たちは毎月5句を提出し、全作品が出そろった時点でそれぞれ「選句」するというシステム(もちろん自分の作品を選ぶ人はいない)なのだ。

実は旅生の俳句、春以降、好調を維持していた。特に夏場は「我ながらいい句ができた」と思うことが多かった。その頃作った俳句を記すとー。

 

夭折の伯母の名を知る盂蘭盆

曽祖父は幕末生まれ墓洗う

 

これは実際に墓参りをしていて浮かんだ句である。ごくごく小さな句会でのまあまあの評価なので、「このくらいの句でいい気になるな」と怒る向きもあるだろうが、そこんとこよろしく、である。多めに見て欲しい。

何かをつかんだ気がした。

俳句には、自分が興味を感じている「力のある言葉」「力のある事実」を読み込めばいい。そしてその言葉や事実とマッチする季語を添えればいい。主従で言うなら「季語は従でいいのではないか」「力がある言葉や事実が主でいいのではないか」。そう感じた。

実は俳句を続けて、一貫した迷いがあった。俳句は季節の移ろいを読むだけのものなのか。それではやがて行き詰まるのではないか。きれいなだけな俳句になりはしないか。

何しろ旅生の俳句のモットーは「せめて俳句だけは、出来る限り自由に」。俳句に取り組み始めた「途端に」心に浮かんだ思いなのである。相変わらず理屈先行で青臭いなぁ、オレ。

ちなみに伝統的俳句では「季語と五七五のリズムを大事にする」有季定型が中心。種田山頭火らの自由律俳句(季語やリズムにこだわらない。例えば「分け入っても分け入っても青い山」あたりが有名)も人気があるが、一般的にはやはり伝統的俳句の手法が主流だ。

何かをつかんだ気がした(勘違いした?)旅生は素直に自分の思いに従った。

で、作ったのが下の句。

 

人間にも再起動あり去年今年

西高東低雲仙岳の雪新た

 

ダメでしたねー。両方とも見向きもされなかった。

パソコン操作で頻繁に使う「再起動」という言葉。みんなが知っている言葉だ。リスタート、出直し、心機一転みたいな前向きな意味合いを感じて、去年今年という季語にはぴったりと思った。また気象好きな旅生としては西高東低という冬ならではの堅苦しい気象用語も、意外と俳句に映えると思った。でもこれではダメという事なのか。

わからん。余計にわからなくなってきた。

結構、落胆が大きく、ちょっと意欲を無くしてしまった年末であった。