一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

「凡人」脱却し自在に詠みたい

どうも。旅するおやじ旅生です。

さて俳句の話です。延び延びにしていました。

毎月20日が締め切りのリモート句会。提出した句をいくつか紹介させていただきます。苦笑せずにお付き合いください。

兼題は「盆」一切ということですが、実のところ、お盆の集まりなど数十年顔を出したことがありません。

というか、子供のころ日曜日ごとに訪ねていた田舎の本家はすでにありません。当主は街中で働き、マンションに住んでいるため、誰も住まなくなり解体されてしまいました。昔はひたすら水田が広がる、干拓地の一角でしたが、今や熊本市郊外の住宅地になってしまいました。

なので子供の頃の記憶を無理やり引っ張り出し、俳句を作ることに。

網戸の向こうから風とともに入ってくる田んぼや畦道の匂い。眠りこけた旅生をうちわで仰ぐ母親の匂い。座敷の横の薄暗く湿った布団部屋、硬く踏み固められた庭の土とマキの木。その横の汲み取り便所。

ただこれらを材料に俳句を作ってみても、どうしてもありきたりの「いかにもな俳句」しかできません。作っているときは一生懸命に考えて「それなりにできたかな」と思うのですが、翌日改めて読んでみると、格好つけただけのこじんまりした俳句になっているのです。

昨日、夏井いつきさんのYouTubeを見ていたら「凡人にあるある脱出作戦」というのをやっていました。凡人の俳句に陥ってしまいがちな単語として「無人駅」「観覧車」「秘密基地」などを挙げ、「使いやすいからと言って安易に流れないよう」注意を喚起していました。

なるほど。秘密基地は使ったことないけど、無人駅と観覧車は確かに何度か使ったことがあります。うわ、恥ずかし。

こうした単語を使うと何となく一応俳句になるんですよね。

旅生が記憶から引っ張り出した映像や言葉は、こうした仲間に入ってしまいそうです。

ふと考え込んでしまいました。第一、そんな昔の記憶を無理して引っ張り出す意味があるのか。俳句ってそんな美しい思い出一辺倒のものなのか。それより「今」を詠むべきなのではないか。

そんなこと考えながら、視点を出来る限り変えながら、いくつか作ってみました。

 

生身魂にくまれ口はまだ尽きず

墓参り三代前の字は読めず

父母を偲ぶ盆会もいつか来る

 

1句目は84歳の父を詠みました。今でも会う度にギクシャクした空気になり、お互いに牽制球を投げ合う困った関係です。ちょっと川柳っぽくなりました。

次の句は半年ほど前、我が家の墓を見ていて気づいたこと。

最後の句は、今は元気に過ごしている両親もやがては死んでいく運命にあることを詠みました。毎年ぼんやり過ごしてしまうお盆も、その頃になって初めて意味を持つのでしょう。

いじくり過ぎてどの程度の出来なのか訳が分からなくなりました。多分良くないでしょう。「ありきたり」は極力避けましたが、他人が見たらどんな感想を持つのか。

ちなみに妻に読んで聞かせたら、いつも以上に関心を示しませんでした。「私が聞いてもわからんよ」と言いますが、時々、的確な判断を下します。何度か指摘してきたのが「あなたには綺麗な言葉でまとめようとする傾向がある」。言われてみればその通り。それが自分の殻なのでしょう。

 

他に作った句も書いておきます。こちらは少し自由に作れました。

 

豪雨去りあっけらかんと夏の雲

道端に息絶えている黒マスク

海近き路地に古びたアロハシャツ

 

最初の二つの句は「感情の赴くまま正直に作れた」気がちょっとします。最後の句はあまりに見たまま、でした。「才能なし」は間違いなし。

よく思うこと。「絵になる景色は句にしにくい」。桜が満開な景色とか感動はしますが、どうしても句にすることができません。どう作っても陳腐になってしまいます。西行のように「花の下にて春死なん」くらいの飛躍が必要なのでしょう。

結果が出たらまた報告します。