どうも。旅するおやじ旅生です。
旅生が子供の頃、九州自動車道の工事中に大規模な古墳群が確認されました。塚原古墳群(熊本市南区城南町)です。史跡としての保全を訴える声が高まり、高速道路は古墳群の下をトンネルで通過することが決定。高速道の工事が進むのと並行して古墳群は公園化され、歴史民俗資料館も建てられました。
で、30年ぶりくらいにこの資料館に行ってきました。前回は妻と結婚前、デートの場所に事欠いて(繁華街に出ると知り合いに会ってしまい恥ずかしいため)、何の興味もなかったこの資料館を訪ねましたが、ほぼ中身は覚えていません。
豪雨被害が全国各地から報告される中、雨が小降りになった間隙をついて訪問。事務所には職員の方が一人だけ。夏休みですがコロナのせいか訪ねる人は少ないようで、急いで館内の電気とエアコンを作動させてくれました。
とはいえ、展示品はなかなかのものでした。縄文、弥生、古墳時代と時代を辿りながら塚原古墳群だけでなく周辺の古墳も一緒に紹介。縄文時代の海進で海岸に近くなったこの城南町〜宇土市〜宇城市一帯が、県北の菊池川一帯と同様、村落が広がり、賑やかな場所であったことがよくわかりました。
ただ考古学の発掘調査で分かった情報が主。「どういう豪族がいたのか」「火の君の一族の墓なのか」「大和朝廷との関係は」「筑紫の磐井との関係は」「熊襲との関係は」など歴史学的な情報がないため(あまり無責任に書き立てるわけにはいかないのでしょう)、古代を立体的にイメージしにくい一面も感じました。
でも考古学とそれ以外の分野のクロスオーバーこそが、旅生をはじめとする多くの「素人」には大事なことのように思っています。
下の写真は皮袋型土器。大陸の遊牧民が馬上などで使った皮袋を模したもののようです。磐井の乱があった6世紀の須恵器らしいです。技術的にもかなり高度なものでは?
この時代には遊牧民の文化が九州中部に深く浸透していたと勝手に解釈しました。今日一番印象に残った展示品です。北方民族の影響が強い新羅と交流があった筑紫の磐井と火の君一族の関係が気になりました。
少しずつ倭の中に入り込む渡来系の文化・文明を感じる時、何故だか一番心が揺さぶられてしまいます。なぜなのでしょうか。