一人旅おやじがゆく

旅することが人生の最大の喜びである旅好きが、各地で見たもの感じたことを淡々と記します。

きれいに撮れた空と雲

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

旅するときれいな空や雲に出合う。そのいくつかを紹介したい。
f:id:noaema1963:20210120220029j:image

宮崎市にある平和記念塔(以前の八紘一宇の塔)から太平洋方面を望んだ景色。いい感じの雲が大海原へと続く、新年の空。
f:id:noaema1963:20210120215923j:image

宮崎県高千穂町。空が近い。12月半ば。この日は寒かったなぁ。祖母山から続く山並み。
f:id:noaema1963:20210120215919j:image

大分県日出町の別府湾に近い国重要文化財の的山荘。初冬の陽光にあふれていた。
f:id:noaema1963:20210120215927j:image

熊本県荒尾市南部から見た有明海雲仙岳。ここから見る有明海が一番美しい。晩秋でした。

改めて写真を見直すと、空の写真が多いのに驚く。

神話は続くよどこまでも

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

相変わらず古事記日本書紀記紀)の神話を調べている。何が旅生の興味をひいているのか。頭の中を整理してみた。

「神話と言いながら、あまりに具体的地名(日向とか出雲とか)が多過ぎる。どういう根拠で地名を出しているのか」「神話ではなく歴史書の形態に近い。どこまでが史実か」「具体的地名を入れるくらいだから、史実とまでは行かなくとも、その地の有力者への政治的配慮があったのか」などなど。

と言うわけで熊本県立図書館に行ってきた。硬軟合わせて神話の本がかなりあると思いきや、すごく隅っこの本棚に20冊ほど。戦前の皇国史観への反発なのか、それともそもそも人気がないテーマなのか(歴史好きの旅生でさえ57歳にして初めて興味を示した)ー。ただコンビニの本棚とかでは「マンガで読む古事記」みたいなのを時折見掛けるから、全く不人気な分野でもないのだろう。

旅生の熱意に八百万の神々が応えてくれたのか、県立図書館の本棚から一冊、いろいろな疑問に答えてくれる本を発見! 「天皇の歴史01 神話から歴史へ」(大津透著、講談社)がそれである。ちなみに大津先生は東京大教授。年齢は旅生の3歳上。ほぼ同年輩。それだけで嬉しい。

f:id:noaema1963:20210117213343j:image

記紀神話のあらすじ

大津教授がまとめた記紀神話のあらすじは次の通り(失礼とは思いながら旅生がさらに短かめ、羅列した)。

(1)天地が混沌とした中、男女の神イザナギイザナミが「この漂える土地を固めなせ」と命令を受ける。二人はオノゴロ島の天の御柱を回り、ミトノマグワイ(性交渉)をして日本列島の八つの島々を生む。国生み神話と言われる部分。

(2)二人はアマテラス、スサノヲ、ツキヨミの天上三神を生む。太陽神アマテラスは天皇家の祖先であり、天上世界の中心。一方、海原の統治を命ぜられたスサノヲは乱行を繰り返し、怒ったアマテラスは天の岩屋戸にこもり世界は真っ暗になる。神々は祭りや歌舞でアマテラスを誘い出し、明かりを取り戻す。スサノヲは天上世界から追放される。

(3)スサノヲが降り立った場所が出雲(ここから出雲神話となる)。スサノヲは肥の河(斐伊川)上流にいる八岐大蛇を退治。大蛇の体内から得た剣をアマテラスに献上。これが三種の神器の一つ草薙の剣となる。

(4)スサノヲの子孫オホクニヌシは葦原の中つ国の「国作り」を完成。するとアマテラスが「国は我が子が支配すべき」と宣言するも交渉は難航する。最終的にオホクニヌシが支配権を譲ることを承諾。条件として出雲大社を建て、自分を祀ることを要求した。

(5)国譲りが実現したため、アマテラスは孫のニニギを地上の世界に派遣する(天孫降臨)。ニニギに三種の神器を与え、5人の神を従者をつけ日向の高千穂の峰に下らせた(以降は日向神話という)。ニニギはコノハナサクヤヒメと結婚し、ホデリ(海幸彦)とホヲリ(山幸彦)を生む。山幸彦が兄から借りた釣り針をなくして対立するが、結局、弟が勝利。兄のホデリの子孫が南九州の隼人であるとされ、隼人が天皇家に奉仕する起源を語っている。

(6)ホヲリはトヨタマヒメと結婚。二人の孫がカムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)で、成長して九州から出発して東征。苦難を乗り越えて大和盆地に入り、橿原宮で即位して初代天皇となる。

大津教授は「記紀神話は8世紀の天皇を中心とする律令国家、その前の大和政権がどうして日本列島を支配するようになったのか、その正統性を説明した神話である」と強調。淡路、出雲など各地に伝わる神話を素材として大和政権の側で再構成し、国生みー出雲神話天孫降臨ー東征ー建国という大きな構想を作り上げたのである」と語っている。

ではこうした記紀神話、それに続く神武天皇以下の記述にはどの程度の史料的価値があるのかー。大津教授は津田左右吉(20世紀前半の歴史学者)の研究成果で説明している。津田は「応神以前には天皇の系譜をもふくめて史実の記録とよべる部分はなく、日本の民族あるいは国家の起源について知るためにはまったく史料価値は持っていない」としたという。

さらに「朝廷の官人の政治的目的による造作の所産。記紀神話は皇室が太陽があまねく国土を照らすように国民を支配するという思想を前提に、それを物語として展開していったものであり、神武東征もその一部である」と津田は主張しているという。

これらの主張は当時の皇国史観を覆すものとなるので、津田の著書は昭和15年に発禁となっている。しかし終戦後、歴史の見方は急展開。津田は文化勲章を受けている。大津教授は「津田説の結論は日本古代史上の大きな成果であり、今日の通説的理解になっている」と書いている。

神話解説はまだまだ続く

大津教授の「神話から歴史へ」はまだ途中までしか読んでいない。これから神武以降の話も続き、古事記以前に編まれた「帝紀」「旧辞」からの影響、中臣氏や物部氏ら有力豪族の存在が記紀にもたらしたものなども出てくる。

ちなみに以前書いた「宮崎県の歴史」(1970年出版)の新バージョン(1999年出版)も読んでみた。旧版は日向神話について冷めた表記をしていたことを書いたが、新バージョンでは神話を記したページはさらに減り、「神話の舞台=宮崎」という主張は幕末以降に盛り上がった話であるーといった旧作以上に冷めた表現になっていた。あらあら。

それにしてもなぜここまで一生懸命、神話と史実の関係を調べるのか、俺。みうらじゅん風に言えば「いやいや、それがいい」というところだろう。

太安万侶が仕掛けたトラップ

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

宮崎神話巡りの後編。古事記日本書紀の神話について本を読んだり、ネット動画を見たり、いろいろやりまくっている。みうらじゅんが言うところのマイブームだ。これまで神話に全く興味がなかったおやじだが、急ごしらえで知識をかき集めている。

しかしである。なにしろ記憶力の低下が著しい。若い頃は記憶力だけは自信があったが、今ではまるで別人のような記憶力である。特に50代に入ってからがひどい。

あることをネットで調べようとスマホを手にするも、一瞬ヤフーの記事などに気を取られると、もうダメ。気づけばその記事に関連したことを調べ始め、当初は何を調べようとしていたのか忘れてしまう。アルツハイマーの初期症状だろうか。

西原理恵子が以前「鳥頭日記」というエッセイを書いていた。「鳥は三歩歩けば忘れる」ということわざからとったようだが、まさに旅生は鳥頭化しつつある。

急ごしらえの知識はすぐに忘れてしまう。特に神話に出てくる神様たちの名前の覚えにくいこと。家系図の複雑なこと。でもこれが全て頭に入ったら、結構面白いのでは。神代や古代へのロマンが一気に膨らむのではないか、と思う。

宮崎に話を戻そう。

八紘一宇の塔(平和記念塔)を見た後、宮崎市北部の「みそぎ池」に向かう。場所は江田神社という歴史が古く格式の高いこの式内社平安時代延喜式に掲載されている)に隣接した「市民の森」の端っこにある。

実はこの池、神話におけるかなり重要なスポット。

イザナギノミコトとイザナミノミコトは多くの神々や島々を生んだが、火の神カグツチを生んだ時にイザナミは大火傷を負い、死んでしまう。イザナミを忘れられないイザナギは黄泉の国を訪ねるが、そこでイザナギは腐敗した恐ろしい姿のイザナミを目にし、逃げ出す。

黄泉の国から地上の世界に戻ったイザナギは「日向(ひむか)の阿波岐原(あわきはら)」に向かい、そこで体を清める禊を行った。その場所と伝えられるのが「みそぎ池」なのである。

 

f:id:noaema1963:20210112131114j:image

この池でイザナギが顔を洗った時に生まれたのがアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの三柱。アマテラスとスサノヲはやがて対立し、スサノヲは高天原を出て行って、出雲国ヤマタノオロチを退治するなど英雄となる。

それにしても神話の荒唐無稽さ、すごいものがある。どこからでも神様が誕生する。とんでもなく長い名前の神様たち。その語感がアイヌの語感と共通したものがあるようにおも思える。縄文・弥生的な語感とでも言おうか。

夕闇染まる「みそぎ池」の周りを散策する。あまり神秘的な雰囲気はなく、どこかしら人工的な感じがしてゴルフ場に点在する池を思わせる、とか言ったら宮崎の人々は怒るだろうな。

この池から100〜200メートル東側には海洋リゾート施設「シーガイア」がある。
f:id:noaema1963:20210112131106j:image

せっかくなので太平洋の海岸まで行ってみた。熊本の人間にとっては馴染みの薄い水平線。時々目にすると、空と海をくっきりと隔てる水平線の鮮やかさが素晴らしい。やっぱ海は大海に限るなぁ。伸び伸びしている。こじんまりした有明海も捨てがたいが。
f:id:noaema1963:20210112131059j:image

車中泊をした翌日、早朝から西都原古墳群に。それにしても真冬の車中泊は厳しかった。毛布をかぶって寝ても、エンジンを切った車内はどんどん冷え、顔が寒くて何回も目が覚める。おそらくは車内も零度近くまで下がったのではないだろうか。
f:id:noaema1963:20210112131122j:image

西都原古墳も初訪問。実にいい。明るく広々としている。もっとじっとりとした雰囲気をイメージしていたが、朝日を受けてカラッとした明るさがあった。ちょっとした台地の上にいくつもの前方後円墳や円墳が並んでいる。

宮内庁が「陵墓参考地」として管理する一際大きい古墳が、男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳。Wikipediaでは男狭穂塚古墳について「宮内庁では被葬者を特に定めない陵墓参考地に治定しているが、被葬候補者として瓊瓊杵尊ニニギノミコト)を挙げ、隣接する女狭穂塚古墳では被葬候補者として妃の木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)を挙げる」としている。

瓊瓊杵尊は先に書いたイザナギの孫でアマテラスの息子。高天原から降臨した有名な神だ。木花咲耶姫は地元の国神の娘ということになっている。

しかし陵墓参考地という存在、この時初めて知った。

ちなみに全国には結構たくさんの「被葬者が皇族である可能性も捨てきれない」陵墓参考地が点在。熊本には一カ所だけ、宇土市に花園陵墓参考地があり、壇ノ浦で亡くなった安徳天皇の墓との言い伝えがある。

数日前、地元紙がこの古墳について紹介していた。安徳天皇は平安末期の人で、陵墓参考地は古墳時代のもの。時代的に大きなズレがあるので信憑性については疑問視されていることも学術的に記してあり、なかなか興味深かった。

宮内庁としても地元の人々の思いを「参考地」という形で尊重しているのだなぁ、と改めて知ることになった。日本人は優しい。
f:id:noaema1963:20210112131103j:image

西都原古墳群の近くにある日向国の二の宮「都萬(つま)神社」にお参りした後、海沿いを北上。日向の一の宮である都農(つの)神社を訪ねる。なかなか商売上手な神社のようで、千円の豪華な御朱印もあり、コレクターとしては買わずにいられなかった。
f:id:noaema1963:20210112131110j:image

f:id:noaema1963:20210113205158j:image
f:id:noaema1963:20210112131129j:image

さらに北上。神武天皇が東征のため船に乗り込んだ美々津。この地区は神話の伝承だけでなく古い町並みが残り、文化庁伝統的建造物群保存地区に指定されている。港町らしい町並みがなんとも良かった。美々津は2度目の訪問だったが、何度来てもいい場所だ。
f:id:noaema1963:20210112131125j:image

神話がどれだけ史実を反映しているのか。神話素人の旅生は実に気になる。

YouTubeで「竹田学校」を配信している旧竹田宮家出身で政治評論家の竹田恒泰氏は、神話が史実であるかどうかについて「どっちでもいい」と強調。確かにそう言われればその通りだが、記紀に書かれた神話はあまりにも地名の表記が多く、意識的に史実と創作を混在させている気がしないでもない。「どっちでもいい」では終わらせない太安万侶らの巧妙なトラップが見え隠れするのだ。

読むものを捕らえて離さない筆力。まるで村上春樹のようではないか。

神話との関係を探りに宮崎へ

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

先月、高千穂に行って以来、神話と日向国宮崎の関係に興味を持ち始めた。年は明けたが2020年は日本書紀編纂から1300年。記紀に書かれている神代はなぜ「宮崎が舞台」とされたのか、ネットや本を乱読している今日この頃だ。

本を読むだけでは飽き足らず、コロナ感染拡大が騒がれる中、車中泊の一泊一人旅を挙行。ほぼ他人とコミュニケーションをとることなく、感染対策を万全にして宮崎県中部・北部の神社や古墳群を巡った。後ろめたさを抱えながら。

そもそもなぜ宮崎は神話の里とされるのか。

古事記日本書紀には「天照大神の孫である瓊瓊杵尊ニニギノミコト)が高天原から日向の高千穂の峯に降り立った」と記している。天孫降臨の説話である。これが宮崎=神話の舞台の原点。

やがて瓊瓊杵尊木花咲耶姫コノハナサクヤヒメ)と出会い、二人の間に山幸彦や海幸彦ら3人の子供が誕生。曾孫の神武天皇は日向から東征して大和国で日本を建国したとされている。

ちなみに今読んでいるのが「宮崎県の歴史」(1970年刊行の古いバージョン。日高次吉著)と「古代日向の国」(1993年刊行。日高正晴著)。多分この二人は親子なんじゃないかな。2冊とも古い本だが分かりやすい。

「宮崎県の歴史」では神話の里であることについて「日向が天孫降臨の地であるといわれたことは、戦前まで宮崎県民の誇りであった。そしてその伝説を事実と信じていた人もあった」と冷めた書き方をしている。さらに神武天皇に触れ、「日向の人々は、天皇が宮崎に宮居していたということをほとんど事実として信じたようであるが、古事記にも日本書紀にもそのようなことは記されていない」としている。

一方、「古代日向の国」では神話と宮崎の関係の深さを強調している。

もし二人の著者が親子だったとすれば、結構仲が悪かったんじゃないだろうか、と要らぬ心配をしてしまう。邪馬台国論争とちょっと似ている感じがする。

 

というわけで、まずは神武天皇を祀っている高原町(霧島の麓)の狭野(さの)神社を訪ねた。神武天皇の幼名狭野尊に因んだ名前だ。厳かな雰囲気の杉林の参道を抜けるとまぁまぁの大きさの拝殿。地元民で賑わっている。この神社は以前、宮崎神宮の別宮だったが、戦後独立。現在は神社本庁別表神社の一つとなっているので、なかなかの格式の神社ということだ。

f:id:noaema1963:20210102201736j:image
f:id:noaema1963:20210102201746j:image

この神社は霧島の噴火の影響で何度か場所を変えたらしい。もともとあった場所には末社の皇子原神社が鎮座している。狭野神社から車で2〜3分。階段をふうふう言いながら上がると、小さな社。ほとんど誰も訪ねる人はいない。すぐ横の公園を走るゴーカートの音がさらにわびしさを掻き立てる。

社の後ろには、茅葺の小屋と神武天皇の子供時代を表現したと思われる石像。小屋の戸の隙間から覗くと、神武天皇の生誕場所を示す「産婆石」(うべし)らしき岩が少しだけ見えた。
f:id:noaema1963:20210102201717j:image
f:id:noaema1963:20210102201713j:image

神武天皇が幼少時代を過ごしたという伝承が残る土地。これまで何度となく温泉に入りに近くまで来たが、そんないわれがある場所とは知らなかった。そういえば至る所に「神武の里」の看板。「焼酎の宣伝か何かかな」とこれまで興味さえ示さなかった自分が恥ずかしい。見上げれば霧島の山並みが悠々としている。

神武天皇はその後、宮崎市の中心部に近い宮崎神宮付近で45歳まで過ごし、東征に旅立ったという。昔の45歳といえば相当な老人であっただろうが。史実とすれば「頑張ったな」。

宮崎神宮を訪ねた。狭野神社から車で1時間ほど。もちろん初めての訪問である。そもそも宮崎市を訪ねるのが10年ぶりくらいなのだ。おそらく旅生が九州で一番訪ねる機会の少ない県庁所在地である。

参考に書いておくと、熊本市在住の旅生が訪ねる各県庁所在地への回数はー。福岡市は年に数回。佐賀市は年1回。長崎市鹿児島市は2〜3年に1回。大分市は5年に1回。宮崎市が10年に1回。ずいぶんあちこちを巡っている気がするが、こうやって書いてみると、そんなに多くはないのかなと思う。

県庁所在地の神社だけあって相当賑わっていた。ここの祭神も当然ながら神武天皇。神社の境内は鬱蒼と木々が生い茂っている。街中でありながら結構な面積を占めているようで、東京でいえば明治神宮に似た存在感である。隣接して護国神社や博物館、美術館があり、雰囲気のいい地区だ。

ここでも御朱印を買ったが、正月のためか書き置き。忙しいので書く暇などないのだろう。なかなかいい感じの御朱印ではありましたが。
f:id:noaema1963:20210102201754j:image
f:id:noaema1963:20210102201722j:image

その後、以前からその存在は知っていたが、ほぼ興味を示すことがなかった平和台公園に向かう。宮崎神宮の割と近く。

公園の真ん中には驚くほど存在感のある平和の塔。「天皇家の誕生の地」と信じられていた宮崎に、神武天皇即位2600年とされた昭和15年、「八紘一宇の塔」として建設。見物に来ていた地元のおばちゃんが「当時学生だった私の祖母が建設作業に駆り出されたと言っていた」と同行の人に熱心に話していた。

八紘一宇とは「天下を一つの家のようにすること」「全世界を一つの家にすること」らしいが、日本のアジア侵略のスローガンに用いられたとも見られ、今では言葉の意味を知らない人の方が多い。

下から見上げるとアンコールワットの一部を思わせる。神話の像も彫りつけられ、何か独特の雰囲気が漂う。日本らしくもあり、アジアらしくもあり、ヨーロッパ的な感じもする。そういう意味では「全世界」を表現できている優秀な建造物なのかもしれない。巨大建造物好きの旅生はしばらく、この塔から離れられずにいた。建設の狙いは置いといて、魅力ある建造物だと思う。戦後よくぞ壊さずに残したものだと思う。
f:id:noaema1963:20210102201731j:image
f:id:noaema1963:20210102201739j:image

塔の展望台(?)から見ると、ずっと向こうに太平洋が見えた。宮崎は穏やかに広々としている。
神話と宮崎の関係で気になるのが、「こういった神話はもともとあった話を脚色して物語にしているのか」「編纂者が一貫して空想した紡いだファンタジーを、古代の日向の知恵者が自分たちの土地に都合よく絡めたのか」といったあたり。後者であれば地域づくりの名人である。何しろ奈良時代の「日向国風土記」にはすでにこの神話を組み込んであるのだ。ということは奈良時代〜昭和初期にかけ、「神代=宮崎の上代」と見られていたわけだ。

このあたり、引き続き、知識を深めていきたい。

 

雪が降る。旅人かつ俳人は熊本城に行ってみた

こんにちは。旅するおやじ旅生です。

「数年に一度の寒波」らしい。熊本地方は日付が変わる頃からどんどん気温が下がり、正午過ぎには3度に。雪もちらほら。暖冬続きのここ数年にしては珍しい。という事でスランプ状態の俳句のネタにもなるだろうと、熊本城を散歩することにした。

 

午後2時の気温は2度。コロナの影響もあり、さすがに観光客は少ない。

f:id:noaema1963:20201230165633j:image

上の写真は二の丸公園(天守閣がある本丸の西側)から撮影。ちょっと見にくいが、石垣の上にあった長塀は2016年春の熊本地震で倒壊している。

熊本城について簡単に説明しておこう。

現在の形の熊本城を造ったのは皆さんご存知の通り、加藤清正である。清正は尾張出身で豊臣秀吉の遠縁とされ、幼少の頃から秀吉のそば近くに仕えた。ぽっと出の秀吉は家臣を持たなかったから、清正のように尾張や近江で急遽かき集められた手下が多い。福島正則石田三成らは清正の同僚になる。

秀吉の九州征伐の後、肥後には佐々成政が置かれるが、「国衆」と呼ばれる地生えの武将らを抑え込むことができず切腹。代わりに清正が大抜擢され、肥後の北半分を治めることになる。城造りの名手とされる清正がいつ、熊本城の築城にかかったか今ひとつはっきりしないが、1600年の関ヶ原の戦いの後、天守閣一帯はおおよそ現在の形になったと見られる。1632年の加藤家改易後に入国した細川家が引き続き、整備を行った。
f:id:noaema1963:20201230165644j:image

ちなみに上の絵は幕末の頃の熊本城の姿を描いたものである。

当時はかなりの数の櫓があったが、天守閣を含むほとんどの建物が1877年の西南戦争で焼失している。何しろ当初の主戦場は熊本城だった。結局薩軍は撤退。西郷隆盛は「おいたちは清正どんに負けた」と言ったという話が有名だが、本当だろうか。

ちなみに現存している建造物は、天守閣のすぐ西側にある宇土櫓や東側の小さな櫓群など一部だ。絵の通り、全ての建造物が残っていたなら、世界遺産に指定されていたかも。まぁそれを言うなら、名古屋城大坂城なども事情は同じだろうが。

天守閣は昭和35年に鉄筋コンクリートで復元。2000年頃から「本来の熊本城の姿を取り戻そう」と櫓などの復元が始まり、やがては本丸御殿までその姿を現した。築城400年祭の盛り上がりもあって観光客の数は年々増加。そんな中、熊本地震に襲われたわけである。
f:id:noaema1963:20201230165652j:image

地震の後、しばらくは城の中に入れなかったが、現在は城内の復旧工事の様子を観光客に見てもらおうと専用の歩道が設けられている。

実はわたくし旅生、地震の後、この歩道を使って天守閣近くまで訪ねたのは今日が初めてだっった。

すごく気にはなっていた。何しろ城好き、歴史好きを自認する旅生なのだ。

ただ熊本地震からの復興を、熊本城の修復を通して象徴的に描き出す向きにかなり抵抗があり、足が遠のいていた。「熊本城は市民の心の拠り所だから」といった発想だろう。確かに分かりやすいし、反論をする論拠など何もないが、なんとなくなぁ。ほんと、なんとなく。ただのへそまがりかもしれない。いや、多分そうだろう。みんなが盛り上がると一人白けてしまう、困ったちゃんだ。やがて還暦なのに。

久々に近くで見上げる天守閣。「こんなにでかかったかな」というのが率直な感想。最上階から見る景色は最高で(特に西側がいい)、年に1回は必ず登っていたが、天守閣の中に入れるのはまだまだ先のことのようだ。
f:id:noaema1963:20201230165656j:image

上の写真は現存する建造物の一つ宇土櫓。国指定重要文化財である。天守閣に比べると直線的で無骨な感じがする。櫓とはいえ、国内に現存する12の天守閣に引けを取らない大きさだ。旅生が子供の頃は非公開だったが、平成に入った頃から中を見学できるようになった。犬山城とか宇和島城あたりと同じ感じの規模。かなりの価値ありと個人的には推奨している。

ちなみに旅生が決めた国内の城郭ベスト10もどうぞ。

 

noaema1963.hatenablog.com

 

 

noaema1963.hatenablog.com

 


f:id:noaema1963:20201230165630j:image

専用の歩道が本丸一帯を一巡できるように設置されている。ちなみに入場料500円。
f:id:noaema1963:20201230165700j:image

まだまだ随所に被災したままの姿が見られる。何しろ国の特別史跡なので適当に修復したら文化庁から怒られるのだ。
f:id:noaema1963:20201230165636j:image

歩道を下から見たらこんな感じ。なかなかダイナミックに張り巡らせている。
f:id:noaema1963:20201230165649j:image

再び二の丸公園に戻る頃には、雪の振り方が激しくなった。風もかなり強く、体感温度は間違いなく氷点下である。2年前に行った青森・函館旅行の時を思い出す。夕方現在、屋根が真っ白になる程度(積雪?)の雪が降り、止んだ。確かに熊本では5年ぶりくらいのちゃんとした雪だ。

ちなみに青森・函館旅行の記事はこちら。

 

noaema1963.hatenablog.com

 

 

noaema1963.hatenablog.com

 


f:id:noaema1963:20201230165641j:image

二の丸公園の隅っこには、崩壊した石垣が並べられている。文化財なので石垣はもともとあった場所に正確に戻さなくてはならない。だから一つ一つに場所を示す番号が貼り付けられている。これから地震前の資料写真などを使っての修復が待っている。実に気が遠くなるような作業なのである。

ちなみに石垣修復を含め、熊本城全体が地震前の状態になるまで20年近くかかるとされている。それまで旅生は生きているだろうか。
f:id:noaema1963:20201230165703j:image

 

 

 

スランプに陥った旅生の俳句

旅するおやじ旅生です。

作り始めてやがて7年になる俳句。絶不調である。

旅生が参加している句会(最近はリモート開催)では毎月、主宰者から季題が提示される。例えば「お彼岸をテーマにしたもの」といった感じで、季語まで限定せずに、ざっくりとした投げ掛けだ。

会員たちは毎月5句を提出し、全作品が出そろった時点でそれぞれ「選句」するというシステム(もちろん自分の作品を選ぶ人はいない)なのだ。

実は旅生の俳句、春以降、好調を維持していた。特に夏場は「我ながらいい句ができた」と思うことが多かった。その頃作った俳句を記すとー。

 

夭折の伯母の名を知る盂蘭盆

曽祖父は幕末生まれ墓洗う

 

これは実際に墓参りをしていて浮かんだ句である。ごくごく小さな句会でのまあまあの評価なので、「このくらいの句でいい気になるな」と怒る向きもあるだろうが、そこんとこよろしく、である。多めに見て欲しい。

何かをつかんだ気がした。

俳句には、自分が興味を感じている「力のある言葉」「力のある事実」を読み込めばいい。そしてその言葉や事実とマッチする季語を添えればいい。主従で言うなら「季語は従でいいのではないか」「力がある言葉や事実が主でいいのではないか」。そう感じた。

実は俳句を続けて、一貫した迷いがあった。俳句は季節の移ろいを読むだけのものなのか。それではやがて行き詰まるのではないか。きれいなだけな俳句になりはしないか。

何しろ旅生の俳句のモットーは「せめて俳句だけは、出来る限り自由に」。俳句に取り組み始めた「途端に」心に浮かんだ思いなのである。相変わらず理屈先行で青臭いなぁ、オレ。

ちなみに伝統的俳句では「季語と五七五のリズムを大事にする」有季定型が中心。種田山頭火らの自由律俳句(季語やリズムにこだわらない。例えば「分け入っても分け入っても青い山」あたりが有名)も人気があるが、一般的にはやはり伝統的俳句の手法が主流だ。

何かをつかんだ気がした(勘違いした?)旅生は素直に自分の思いに従った。

で、作ったのが下の句。

 

人間にも再起動あり去年今年

西高東低雲仙岳の雪新た

 

ダメでしたねー。両方とも見向きもされなかった。

パソコン操作で頻繁に使う「再起動」という言葉。みんなが知っている言葉だ。リスタート、出直し、心機一転みたいな前向きな意味合いを感じて、去年今年という季語にはぴったりと思った。また気象好きな旅生としては西高東低という冬ならではの堅苦しい気象用語も、意外と俳句に映えると思った。でもこれではダメという事なのか。

わからん。余計にわからなくなってきた。

結構、落胆が大きく、ちょっと意欲を無くしてしまった年末であった。

 

出張の合間に佐賀の古い町並み観光

旅するおやじ旅生です。

年末押し迫ったにも関わらず、佐賀市に出張。コロナ感染が拡大しているにもかからず、うちの会社も相手先も「どうにか大丈夫だろう」と許可が下りた。当然日帰りの主張である。

新幹線(年末なのにガラガラ)で新鳥栖まで行き、在来線に乗り換えれば、1時間半もかからず佐賀駅に到着。用件は午後からなので1時間半ほどの自由時間を捻出し、佐賀城下の北側を通る旧長崎街道を歩いてみた。

ついこの前、休みを使って長崎県大村市を訪ねたばかり。長崎街道はあの町も通っている。1週間も間をあけず、再び長崎街道の街を訪ねることに大いなる喜びを感じる旅生なのであった。これはあれだな、縁だな。

佐賀駅から佐賀城方面に南下すること15分ほど。佐賀の街を東西に横切る旧長崎街道にぶちあたる。さすがに薩長土肥の一角を担う旧佐賀藩だけあり、駅から延びる通りには、近代日本に貢献した多くの偉人の銅像が並んでいる。東京駅を設計した辰野金吾(1854~1919)も佐賀の出身とは知らなかった。

ネットで生存年を調べて気になった「1919年死去」。もしかして…と思ってよくよく調べると、やはりそうでした。「スペイン風邪に罹患して死去」。それにしても、スペイン風邪の猛威からほぼ100年後にコロナ感染拡大とは。ちなみに島村抱月大山捨松大山巌の妻で教育者)もスペイン風邪の影響で亡くなっている。

f:id:noaema1963:20201227132902j:image

佐賀市はあまり知られていないが、城下町の面影を結構多くとどめている。県庁所在地にしては小規模な町で、平野のど真ん中にあるため戦後の開発が周辺に広がっていったと推測している。それでいい感じの古さが町中に残ったのではないだろうか。

 

以前から何度となく書いた通り、筑後川に近いこのあたりの平野部がなんとも好きである。柳川、大川、佐賀、久留米あたり。分厚い歴史も質のいい温泉も、のどかな雰囲気もある。出張の相手先の人に「年に5~6回はこのあたりに来ている」と言ったら、喜ばれるというより、ちょっと驚かれた。

このあたりの良さがうまく描き出せている映画は「男はつらいよ」の第42作目「ぼくの伯父さん」。浪人生の満男が恋心を募らせる及川泉(後藤久美子)が転校した佐賀をバイクで訪ねる話。マドンナは檀ふみ。親父が九州出身のせいか佐賀弁が上手だった。

吉田修一(長崎出身)の同名の小説を映画化した「悪人」も佐賀がメインの舞台だった。妻夫木聡をはじめ主だった出演者はぼぼ九州出身という凝りよう。ただ作品自体は明るいものではなく、地方独特の暗澹たる閉そく感を見事に描き出した傑作である。何回見たか分からない。おすすめです。
f:id:noaema1963:20201227132907j:image

長崎街道は今でも商店街で一部はアーケード街になっている。

想像していたよりずっと賑やかで、脇道に入ると若者が経営するこじゃれた雑貨屋や洋品店もあり、今後どんな感じに熟成していくか楽しみである。
f:id:noaema1963:20201227132857j:image

商店街から東へ進むと、古い町並みが見えてきた。ここが今回の最終目的地である。明治18年に建てられたレンガ作りの旧古賀銀行(佐賀市歴史民俗館)がその中心。商業会議所などに利用された時代もあり、改装もされたが、現在は大正5年当時の姿に復元されている。中にはカフェもあり、佐賀の歴史を説明するパネルなどが並んでいて、なんともいい感じである。
f:id:noaema1963:20201227132911j:image
f:id:noaema1963:20201227132917j:image

ほかにも旧古賀家、旧牛島家、旧福田家など全7館が周辺にあり、無料で公開している。いずれも佐賀市重要文化財だという。ちなみにこの一角は文化庁重要伝統的建造物群保存地区に指定されていない。

旅生の記憶では、九州の県庁所在地でこれだけの古い町並みをしっかり残しているのはこの佐賀市長崎市だけではないか。何度も言うが「古い町並みはつくるもの」。せっかくのいい材料もほっておけば「通常の住宅街」になってしまう。おそらくこの長崎街道沿いの古い町並み、あと20年したらさらに進化している気がする。楽しみだ。

などと感心していたら同僚から「先に着きました」とLine。急いでタクシーを探すが、全く走っていない。中規模の都市の中には「タクシーは呼び出すもの」という慣習があるので、佐賀市ももしかしたらそうなのかもしれない。結局、約2キロの道のりを速足で歩き切り、どうにか間に合った。まいった。

佐賀市は岡田三郎助を輩出するなど美術が盛んな町でもある。その話は別の機会に。